リエピーこと後藤さんに、一部上場企業から大きな商談が持ち込まれた、ちょうどその日、坊津君は前日から小さな会議室へこもって、徹夜の作業を続けていました。「氷の女」と恐れられる開発部の愛須課長に案件の見積もりを拒絶され、途方にくれていた坊津君ですが、同じ開発部の松本課長が助け船を出してくれました。しかし、その松本課長も難物で…。
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「ほかに連絡事項がなければ本日の朝礼は終わります」
開発部の片隅で待っていた坊津君が、夜を徹して作った見積もり用資料を抱え、松本課長に駆け寄ります。
「おっしゃる通りに、やりましたよ。竜一郎さん。これでいいですか?」
「おおっ、作ってきおったか…ふーん、ふんふん」
何も言わずに資料を見ていた松本課長ですが、数分後「こんなもん通用せんわ」と言うやいなや、一抱えもある資料をゴミ箱に叩き込みました。
「なにするんですか! ひ、ひどいじゃないですか」
「あ、そうだな。こりゃひどいな」そう言うと松本課長はゴミ箱からファイルを取り上げました。
「ISO14000だったっけなあ。このまま捨てたら俺が叱られちまう」 松本課長は、用紙からクリップを全部外し、もう一度資料をゴミ箱に捨てました。
「一度ならず二度までも、いきなり捨てるなんて! アンタが言った通りの資料じゃないですか!」
ゴミ箱から拾い上げると坊津君は説明を始めました。
「これはプログラムの名前の一覧、これは入力画面と検索画面のデザイン、そりゃ僕の手書きですけど、で、これは出力系、帳票のイメージとか…これは…全部アンタが言った、そのままじゃないか!」
松本課長の机に資料を叩きつけ、睨みつける坊津君。松本課長も鬼のような形相でゆっくり立ち上がると、額をぶつけそうな距離でこう言いました。
「俺が読めるものを作ってこいって言ってるんだ! バカタレが!」
「あんたは、日本語が読めないんですか!」
「ああ、読めないね! 出直してこいっ!」
「ぐぐぐぐっ。で、出直してきますよっ!」
怒りに震える坊津君でしたが、松本課長の勢いを前に引き下がってしまったようです。
「コン、コン」
突然、坊津君のこもっている会議室のドアがノックされました。4人も入ればぎゅうぎゅうの小さな部屋で、なぜか掃除道具が入れてあります。自席にいると電話がかかってくるし、猫柳君やリエピーはうるさいし、部長や課長に呼ばれるしで、ただでさえ考え事が苦手な坊津君です。作業に集中したいときは、この物置みたいな部屋を使うようにしているのでした。
「はい、だれですか?」
あまりに理不尽な松本課長の言動です。徹夜で作った資料をごみ箱に捨てられたショック。もう情けないやら腹が立つやら。でも、どうしていいのか分からない坊津君の頬は、涙で濡れていました。ノックの音を聞いてあわててハンカチで顔を拭いたとき、ドアを開けて現れたのは愛須課長でした。
「あ、あ、愛須課長」
「まあ、狭い部屋。こんな会議室、うちにあったのね」
「誰にも迷惑をかけないで、作業ができるんです」
「なるほどね。私も使わせてもらおうかしら…でも、ちょっと汚いわね。うふふ、サンドイッチよ。一緒に食べようか」
「え? え?」
坊津君の前の椅子に腰掛けると、愛須課長は持っていた紙袋からランチボックスを出しました。
「昨日は泊まりだったんでしょ? 朝ご飯たべてないわね。私のランチだけど、ちょっと作りすぎたの。よかったら食べて。コーヒーも持ってきてあげたわ」
ポットから注がれるコーヒーの湯気を見ていたら、思いもしなかった愛須課長の優しさがへこみきった心にしみてきて、坊津君は涙が止まらなくなりました。
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(イラスト:尾形まどか) |
「ありがとうございます。い、いただきます…でもなんで自分に、こんなにしてくれるんですか?」
涙を拭きながらサンドイッチにかじりつく坊津君を優しい目で見ながら、愛須課長が話し始めました。
「私ももう少し早く、あなたみたいな営業マンに会っていたら…違うSEになっていたかもしれないと思ってね。坊津君は入社何年目?」
「自分は4年目です」
「そう。私もあなたくらいのころは、あなたのような目をして仕事に取り組んでいたわ。でもね、いろいろあったのよ…」
問わず語りに愛須課長が話し出しました。
「愛須君、席に戻って部長にお酌をせんか!」
「私はホステスじゃありません!」
居酒屋のトイレの前でのことです。この日はプロジェクトのキックオフ。顧客との顔合わせが終わって、飲み会が始まり1時間がたったころです。新人だった愛須さんと営業課長らしき人がもめています。
「おいおい、お前ら新人の女のSEなんかホステス以下なんだよっ! いいか、せっかく俺の営業で、なにもできないお前らを優秀なSEと抱き合わせにして、いい単価で突っ込むことができたんだ。なんだ、それくらいのこと、しっかり接待せんか!」
「でも、あのシステム部長、わたしの体を触ってくるんです。もう耐えられません。お願いです。帰らせてください」 新人の愛須さんは泣き出していました。
「ようし分かった。いいよ、帰って。とっとと帰れ! でもな、これだけは言っておく。今お前が帰ったら部長のご機嫌が悪くなる。明日から始まるプロジェクトの皆に迷惑がかかるんだ、もちろん、お前も居づらくなるだろう。それでもいいって言うんだな」
「え、ええ…それは…」
「ひでえ、それセクハラですよ! 訴えればよかったじゃないですか」
「そんなことがまかり通っていた時代よ。それからの私は必死で仕事をしたわ。小さなプロジェクトのマネジャーを振りだしにがんがん仕事をした。なにもできない『オマケの女の子』なんて言われないために」
「そうですよね。生え抜き同期入社でトップ、最年少課長ですよね」 坊津君は3つ目のサンドイッチに手を出そうかどうしようか考えながら、愛須課長の話に聞き入っていました。
「自分で言うのもなんだけど、私はプロジェクトマネジャーとして優秀だったわ。20代後半には複数のプロジェクトを管理させられるようになった。一度に3本から4本くらいかな。完璧なマネジメント。原価率の低減も指示通りにクリアした。赤字プロジェクトの火消しもこなした。でもね、会社は私の評価を正確に行わない。賞与になると、私が管理したプロジェクトの利益ではなく、会社全体の利益でしか話をしないのよ。上司も人事部も全くふざけてる」
「あ、でも最年少で課長に昇格されたって話は、社内でも有名じゃないですか」
「…残業代がなくなったってだけ。SEって仕事はね、残業が無くなると生活が厳しくなるの。課長になると、部下の課長代理と手取りが逆転する。ほんと、なんのためにがんばってきたんだろう…あ、コーヒー入れてあげるわね」
そのとき愛須課長のめがねが曇ったのは、コーヒーを注ぐときの湯気なのか、少し涙ぐんだせいなのか、坊津君には分かりませんでした。
「どうせ評価がそこそこなら、仕事もそこそこでいいのよ。会社のいう通りに仕事を受けるのはバカバカしい。もっともらしい理由をつけて仕事を断る。いつからかな、そう考えるようになったのは…でもね、あなたを見ていてなんかね、感じたの。昔の気持ちを思い出して励ましてあげたくなったのよ」
「え? 俺の仕事、手伝ってくれるんですか。やった! これで竜一郎の野郎に一泡吹かせてやるぜ!」
「あはは、おバカさんね。私は手伝わないわ。でもヒントはあげる」 愛須課長は、クリアフォルダから何枚かの紙を取り出しました。
「御覧なさい。悩んでいた答えがここにあるから。そうそう、サンドイッチは全部食べていいからね」
そう言って、愛須課長は部屋を出ていきました。
「あ、ごちそう様でした。でも、こ、これは…」
しばらく数枚の書類を見ていた坊津君ですが、何かに気づいたらしく、小さく「あっ」と叫びました。
「そうか、こういうことだったのか! これなら俺にもできるかもしれない!」
(次回に続く)
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