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ITエンジニアが企業を退職する際に「競合企業への就職を禁じる」という内容の「競業避止契約」を求められることがある。しかし,職業選択の自由との兼ね合いから,この契約は無効の場合もある。

  金属鋳造用の資材を製造・販売する有限会社フォセコ・ジャパン・リミテッドは,技術上の秘密を守るため研究開発部門の従業員に対し「機密保持手当」を支給していた。1969年6月,研究開発部門に11年間勤務していた従業員と,同部門に7年間所属した後4年間セールス・エンジニアとして勤務していた従業員の2人が相次いで同社を退職し,間もなく設立された競合企業の取締役に就任した。

 フォセコと2人の元社員は,「在職中も退職後も業務上知り得た秘密を他に漏らさず,退職後2年間は競合企業に関与しない」という内容の「競業避止契約」を結んでいた。そこで,フォセコは「金属鋳造用資材の製造・販売業務に従事することの禁止」を求めて,裁判所に提訴。これに対し訴えられた2人は,そもそも競業避止契約自体が「職業選択の自由」と「営業の自由」を不当に制約するので公序良俗に反する,として競業避止契約の無効を主張した。

 裁判所は,「原則的に従業員が雇用中に得た一般的知識・技能を雇用終了後に活用することを禁止する契約は職業選択の自由を不当に制限するから公序良俗に反する」と述べた後,「しかし営業秘密を知り得る立場にある従業員が秘密保持契約を結んでいる場合は,競業避止義務を負わせることは適法」としたうえで,「本件の競業避止契約期間は2年間と比較的短く,制限対象職種も金属鋳造用資材の製造・販売に限られている。さらに在職中は機密保持手当が支給されていた。これらを総合的に考慮すると,競業避止契約が無効とは言えない」と判断。2人に対し競業を禁止する判決を下した。(奈良地方裁判所1970年10月23日判決,判例時報624号78頁)

 読者の多くは,コンピュータ・メーカーやシステム・インテグレータ,あるいは一般企業の情報システム部門など,なんらかの企業に勤務しているものと思う。企業に勤務する社員は,企業と「労働契約」を結んでいることになる。このため労働契約の存続中は,誠実に仕事をしなければならない義務がある。

 勤務先の企業と競合する仕事をしてしまったら,どうなるだろうか。言うまでもなく,この「競業行為」は明確な「労働契約違反」に当たり,損害賠償や差止請求の対象となる。ときには懲戒処分を受けることもある。

 では,退職後はどうだろう。退職後も元の勤務先と競合する仕事をしてはいけないという「競業避止契約」(図1)を在職中または退職時に結んだ場合,法的に拘束されるのだろうか。

図1●競業避止契約の例
図1●競業避止契約の例

競業の禁止には条件がある

 結論から述べれば,「競業避止契約」が有効かどうかは,社員の「職業選択の自由」と企業の「不正競争からの保護」という2つの兼ね合いから,ケース・バイ・ケースで判断される。

 憲法では,職業選択の自由が保障されている。これを不当に制限する契約は,「公序良俗違反」として民法により無効となる。この観点から言えば,一般的に「競業避止契約」は無効である。

 一方,企業も「不正競争」からは保護されなければならない。企業から見れば,元の社員が競合企業に就職するのは,自社のノウハウを持っていかれるので,たまったものではない。競合企業に就職した元社員が,自社の営業秘密を不正に漏洩しないとも限らない。「競業避止契約」を結んでこれを防ぎたいのは当然だろう。

 では,どんな場合に競業避止契約が有効になるのか。日本でその基準になっているのが,冒頭で紹介したフォセコ事件だ。1970年といささか古いが,今も通用している重要な判例である。

 フォセコ事件では,(1)元社員が元の勤務先で重要な営業秘密を職務上知り得る立場にあった,(2)機密保持契約を結び機密保持手当を支給されていた,(3)「競業避止契約」の対象職種や期間が明確になっていた――ことを総合的に判断して,裁判所は競業避止契約の合理性を認めた(図2)。逆に言えば,こうした条件を満たしていない場合は原則として「競業避止契約」は無効となる。

図2●競業避止義務が有効となる条件の例
図2●競業避止義務が有効となる条件の例

画期的なペプシコ事件判決

 フォセコ事件では,元社員は「競業避止契約」にサインしていた。では,競業避止契約にサインしなければ,退職後に競合企業に就職するのは自由なのだろうか。

 原則的には自由だ。しかし,100%そうとは言い切れない。企業と社員の間で競業避止契約が結ばれていない場合でも,退職した社員が競業を禁止される可能性はある。こうしたケースに関する日本の判例はまだないので,米国の判例を紹介しよう。

 1994年11月に米ペプシコが,食品大手クエーカー・オーツのソフト・ドリンク部門に転職したペプシコカリフォルニア地区の元総支配人の転職差し止めを求めて訴訟を起こした。裁判所は,「元総支配人が新しい勤務先でペプシコの事業戦略や事業計画を必ず開示することになる」と判断して,ペプシコの営業秘密の漏洩を禁止するとともに,6カ月間競業行為を差し止める命令を下した(連邦控訴裁判所判例集第3集54巻1262頁)。

 この判決は,ドリンク市場でのペプシコとクエーカー・オーツ間の激しい競争を背景にしている。ペプシコは,クエーカー・オーツの「ゲータレード」や「スナップル」に圧倒的な差をつけられていたので,1995年を勝負の年と考え,事業・価格戦略,営業戦術などを練っていた。それに参画し計画を熟知していた元総支配人は,たとえペプシコの営業秘密を漏らさないと約束していたとしても,クエーカー・オーツで事業計画を作成する地位につく以上,職務上ペプシコの秘密を開示・利用することは不可避と判断されたわけだ。将来,日本で同じような訴訟が起きれば,裁判所が同様な判断を示すことはまず間違いない。

 「職業選択の自由」から競合他社に就職するのは原則的に自由だが,明らかに元勤務先に不利益をもたらす行為は違法行為となる。例えば,取締役や社員が企業の運営に不満を持って一斉に退職したり,部下を大量に引き抜いて競合他社に参加するのは,元勤務先の営業活動を違法に侵害する不法行為となる。

辛島 睦 弁護士
1939年生まれ。61年東京大学法学部卒業。65年弁護士登録。74年から日本アイ・ビー・エムで社内弁護士として勤務。94年から99年まで同社法務・知的所有権担当取締役。現在は森・濱田松本法律事務所に所属。法とコンピュータ学会理事