初の営業志望で入社した“期待の新人”が登場しました。ただ、この万田君、関西人らしく口は達者ですが、お調子者。軽くむかついた桜井君は、難しい交渉が必要な現場へ連れていき、仕事の厳しさを見せつけようとします。一方、坊津君や猫柳君が担当するラビット製薬の案件ですが、仕様変更の連続で追加料金も取れない原因は、どうやら昨年5月の出来事にあったようです。
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地下鉄に飛び乗ったのは18時を回った頃でした。
「先輩、こんな時間からで大丈夫なんですか?」
研修帰りのくたびれた顔で万田君が聞きます。
「いま電話してたってことは、相手がいるってこと。だから…」「電話切ったら、帰ったかもしれませんやん」
『こいつは話の腰を折る奴だなー』と思いましたが、「いいんだよ」と返事をする桜井君です。
「それより今から行くとこの話なんだけど」
桜井君は辺りを見回して、誰にも聞かれないように確認してから説明を始めました。
「中小の運送会社なんだけどね。トラブってて」
「状況は?」
「1年前に受注して半年の納期が9カ月で納品。やっと動き出したと思ったら、うちの協力会社のプロマネが入院してサポート不能になっちゃったんだ」
「それで?」
「先月、バグが出たんだけど改修不能で1週間」
「他のプロジェクトメンバーは?」
「新しいプロジェクトに入って、対応不可能だってさ」
「で、プロマネさんは入院と」
「うん。保守料はいらないから、サポートを辞退させてくれって、今そこの営業部長から電話があったんだ」
「うちのSEでサポートできますのん?」
さっきから上司に問い詰められてるみたいで、ちょっと腹が立つ桜井君でしたが、関西弁でポンポンと言われるとつい答えてしまいます。
「そりゃ無理だよ」
「どないしますのん?」
「それが分かんないから困ってるんだよ。困ったときには相手の顔を見て直接話す。これが鉄則って、いつも中田事業部長は言ってるし」
「でも落としどころがないんやったら、行かんほうがマシちゃいまっか?」
「…」「…」
いちいちカンに障る万田君の物言いですが、正しい部分もあるわけです。言い返せずに黙ってしまった桜井君に、万田君も言いすぎたかなと少し反省したようで、2人は沈黙しました。そして、さしたる案も浮かばないまま、地下鉄は目的の駅に到着しました。
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(イラスト:尾形まどか) |
「それで、これが新しい見積もりか?」
昨年5月のラビット製薬です。鮫島部長が見積もりを書き直してきたようです。交渉は今までのように会議室ではなく、ラビット製薬の亀井部長の席。鮫島部長は立たされたまま、説明をしています。
「財務と販売で総額の2億円、こちらで契約をいただいておりました」
「うむ。ところでこの単価はどういうことだ?」
「はあ?」
「この180万ってなんだって聞いてるんだよ!」
度重なる値引き交渉とそれに伴う再見積もりで、単価がぐちゃぐちゃになってしまいました。鮫島部長が価格を再度按分した結果、シニアSEの単価を180万円に設定しないと全体の金額が合わなくなってしまったのです。
「ええっ…その…」
「こんな単価で、ほかとも取引してるのか? お前のところは」
ファイルをパサッと机に置き亀井部長が聞きました。
「おまえの会社の最高の単価はいくらだ?」
「150万くらいですか…」
「よし分かった、じゃ150万でいこう」
「えっ!」
鮫島部長はシニアクラスのSEの工数×30万円を値引け、と言われてることに気がつきました。
「いや、しかし…3名入ってまして、12カ月ですから、36かける30万で1000万円の値引きになりますが…」
「おう、そうか。じゃそれで頼むとするか」
シニアクラスを下げると、ジュニアクラスのSEやプログラマも、単価を軒並み下げなければ全体の整合がとれません。これを受け入れると受注総額の2割、4000万円は下げざるを得なくなるわけです。
「そ、そんな殺生な」
「貴様こそ、うちだけ、そんな吹っかけた金額で取引するとはどういうことだ? そっちのほうが殺生じゃないか。よく考えてこい。わははは、じゃ、これはありがたくいただいておきましょうかね」
『しまった、はめられた』 鮫島部長がそう思ったときは既に遅く、見積もり書は亀井部長の机にしまわれてしまいました。
「どうした、鮫島さん。さっさと帰ったらどうだ」
「…」
「邪魔なんだけどね」
あまりと言えばあまりの出来事に、さっきから耳をそばだてていたラビット製薬の情報システム部員たちも声を失っています。
「どけ、と言ってるんだが、聞こえないのか?」
「…」
「さっさと帰れよ」
「…ま…せん」
「なんだって?」
蚊の泣くような声で鮫島部長が振り絞った言葉は「そんなに値引きできません」の一言でした。
部員は全員、雷が落ちるのを覚悟したのですが…。
「ほほう、なかなか骨があるじゃないか。お年を召されて営業に回った連中はつまらないのが多いんだがね」
そう言って急に笑顔になった亀井部長は、席を立ち鮫島部長の震える肩をつかみました。
「じゃ、あっちでコーヒーでも飲もうか。応接にコーヒーを2つ頼むよ」 そう部下に言うと、2人で階下の応接に消えていきました。
「しかし、どうしてこんなに納期が遅れたんだろう」
「仕様変更の連続だったらしいぜ」
こちらは現在のラビット製薬です。バレンタインデーを目前にして、今日も19時からの打ち合わせに赴く坊津君と猫柳君。駅からの道は寒風吹きすさぶ2月の初旬ですが、今日もやっぱり怒りで燃え上がる2人です。
「じゃ、どうして納期は予定通りなんですか?」
「知らねえよ。ハードの保守でも切れるんだろ」
「百歩譲ってそれはいいとして、どうして仕様変更のお金をもらえないんですか? 受注金額は最初の2億のままでしょ?」
「うーん、なんだか4000万値切られて、その分を仕様変更に追加されたらしいぞ」
「なんで4000万も値切られるんですか? うち悪いことしたんですか?」
「だから知らないって! 俺に当たるなよ」
「だって、愛須課長がどんどんやつれていくのを見るのは辛いんですよ」 もう涙ぐむ猫柳君です。
『泣きたいのは俺も一緒だよ』と言いたい坊津君でした。『いったい、どうやってこんな悲惨な状況が生み出されたのだろう』
応接にコーヒーが運ばれてきて数分後、やっと亀井部長が口を開きました。
「サメさん、あんた、なかなか根性があるじゃないか。それに免じて値引きの話はなかったことにしよう」
仰天する鮫島部長です。
「わしだって鬼じゃない。無茶なことは言いたくない。しかし言わなきゃならん、わしの立場も分かってくれ」
紙筒に入った砂糖を2本分入れ、スプーンでかき回しながら、ゆっくり話し始める亀井部長です。
「サメさんと呼ばせてもらおう。アンタはワシと年もそう変わらんだろう。そうか3歳下か。ワシらはあれだ。パンチカードの時代からプログラムを作ってきた。言ってみれば戦友じゃないか」
激しくうなずく鮫島部長です。
「いい時代だったなあ、サメさんも好きで営業やってんじゃないよなあ」
『あの頃は必死でプログラムを追っていた。デバッグをこなしていると時間がたつのも忘れた。その通り。好きで営業やってんじゃない。そういうふうにしたのは会社じゃないか。この人なら分かってくれる…』
つい愚痴を言い出した鮫島部長が、料金を引き下げない代わりに、今後発生する仕様変更をすべて無償で行うことを応諾するのに、そんなに時間はかかりませんでした。
「そうか、サメさん! 分かってくれるか」
「ええ、今後の仕様変更はすべて、この鮫島が引き受けましょう」
『どうせ大なり小なり仕様変更は発生するんだ。ギリギリまで鯨井事業部長には黙っておこう。そのうち気が変わって、追加料金を支払ってくれるかもしれないし。4000万円も得したんだから、どうにかなるさ』
しかし4000万円は本来、自社の身銭です。得した気分になっているのは明らかに勘違いであることに、そのときの鮫島部長は気付きませんでした。
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