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「小休止」期間に生まれた,初めてのヒット商品

 取材に対応していただいたのは,Libretto 20の商品企画を担当した白髪明敏氏(写真3)と,開発を担当した佐藤重信氏(写真4)。佐藤氏は作業着で,白髪氏はスーツ姿である。お二人からは“現場の匂い”がプンプンと漂ってくる。10年以上前の記憶を呼び起こしてもらいながら,話を聞いた。

写真3●白髪 明敏氏(東芝 PC&ネットワーク社 PC商品企画部 第二担当 グループ長)
写真3●白髪 明敏氏(東芝 PC&ネットワーク社 PC商品企画部 第二担当 グループ長)

写真4●佐藤 重信氏(東芝 PC&ネットワーク社 PC開発センター PCシステム設計部 第二担当 グループ長)
写真4●佐藤 重信氏(東芝 PC&ネットワーク社 PC開発センター PCシステム設計部 第二担当 グループ長)

 開発のきっかけは,Windows 95の登場だった。開発担当の佐藤氏がそれまで取り組んでいたのはWindows for Pen Computingを搭載したPC。Windows 3.1にペン・コンピュータ機能を追加した,現在におけるタブレットPCのような製品である。どの製品もヒットせず,市場には限定的にしか受け入れられないまま,消えていった。次にやるもの,それがWindows 95を搭載した“胸ポケットに入るパソコン”だった。

紳士服店でスーツのポケット・サイズを調べる

 本製品の企画が始まったのは,製品発売の2年前の1994年。ポケットに入るPCを作りたいと最初に考えた。「それも背広の内側にある胸ポケットからこう出す(取り出す仕草をしながら)のが格好いいなと」(佐藤氏)。そうはいってもポケットのサイズがわからない。定規を持って紳士服店に行き,許可を得ては内ポケットのサイズを量る。「100着,いや,もっとだったかな」(同氏)。その平均値で,奥行きと高さが決まった。幅は,VHSのカセット・テープのサイズを取り入れた。

 「こういうパソコンを持って歩きたい」――そうは思いつつも,不安はつのった。当時,携行できるPCはラップトップと呼ばれる数キログラムのものが,東芝ならノートブックと呼ばれる現在でもなじみ深いサイズに移ってきたころ。やろうとしている製品はその何分の一かである。担当者の間では「本当にできるのか?」という言葉も飛び交っていた。

「付けてくれないと売れません」

 なぜか時間はあった。検討期間は2年。東芝におけるいち製品の開発としては,現在から見ると信じられないほど長い。当時としても長いほうだった。そこで検討したのは「何を捨てるか」。そのころのIBM PC AT互換機は,デスクトップであれ,ノートPCであれ,様々な,大きなコネクタ類を備えていた。プリンタに接続するためのパラレル・インタフェースや,RS-232Cなどモデムを接続するためのシリアル・インタフェース。USBはまだなかった。キーボードやマウスはPS2で接続していた。

 これらのインタフェースを廃することができれば,小型化も低消費電力化も同時に達成できる。しかし1996年当時では,PCがこれらのインタフェースを備えていることは“当たり前”だった。商品企画部門は言う。「付けてくれないと売れません」。一方,技術者は言う。「そんなもんつけたら小さくなんないよ」。結果,Libretto 20が備えたインタフェースはPCMCIAカード・スロットと,赤外線(IrDA)だけになった。

オフィスのPC環境を外に

 単に技術者の意見が勝ったという事情ではなさそうだ。「目的は持ち歩けるパソコンを作ること。外でそれが必要なの?」(白髪氏)。白髪氏が持っていた製品のイメージは,オフィスで使われていたPCの環境が,外でもそのまま利用できるもの。当時のオフィスにあったのは,現在よりもずっと大きいPCと,巨大なCRTディスプレイ。一人1台はなかった。

 そこにこの新しいPCがあれば,オフィスで見切れない資料やメールを外で見たり,レポートを書いたり,プレゼンテーションを作ったりできる。このために必要な機能は切り落としたくない。だから“ちゃんとした”Windowsが動かなければいけないし,キーボードも必要だ。そこは妥協したくない。電子手帳みたいなものになっては意味がない。

 一方で,商品企画として捨てきれない意見もある。やはりオフィスに戻ったらプリンタにつなぎたい。そこで「I/Oアダプタ」という外部インタフェースを設けて,シリアルやパラレルなどのインタフェースも利用できるようにした。

 結果,自分が欲しいと思える製品企画ができた。技術者も言う「欲しいモノじゃないと開発していられない」(佐藤氏)。意見のぶつけ合いから,欲しいと信じる企画が生まれた。