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 記事を書いていると「自分はこんなことも知らなかったのか」とがく然とすることがある。

 4月末,「Developers [Test] Summit 2008(デブサミTest)」というソフトウエア開発者向けイベントで開かれたパネル討論のレポートを書いた(関連記事)。オープンソース・プロジェクト「Seasar」のチーフコミッタとして名高いひがやすを氏が,同氏考案の「Programming First Development」というラディカルな開発手法を使ってテストを減らすことを提案。これに対し,二人の若い技術者(テスト分野で有名な太田健一郎氏と,テスト駆動開発の第一人者である和田卓人氏)がツッコミを入れるという構成だった。

 討論を聞いていたときは,太田氏や和田氏の意見のほうが理路整然としているし,説得力がある,と思っていた。ところが,このレポート記事に対するソーシャル・ブックマークのコメントを見ていると,思いの外,ひが氏に共感する意見が多かった。ひが氏のほうが現場感覚に近かったのである。私は,テストがいかに開発者の負担になるか,そのことを全く理解していなかったことに気がついた。

 白状すると,私はまともにテストを書いたことがない。せいぜいが,小さなプログラムが期待通りに動作するかどうかを見る簡単なテスト程度。境界条件や異常系のテストを書いたことはないし,ましてや実際のシステム開発でのテスト経験などない。開発現場の感覚がわからないのは,当然といえば当然である。

 だが,そんな人間に開発の記事を書く資格があるのだろうか。「ギョイゾー」という低価格のシステム構築サービスを開始したスターロジックという会社がある(関連記事1関連記事2)。同社代表取締役社長の羽生章洋氏は,自身のブログに次のような文章を書いている(ブログは現在は非公開。以下の文章の引用は羽生氏に許可をいただいています)。

翻ってIT業界はどうかというと,そういう人いないよね。業界の歴史をきちんと理解して技術的なことについてもきちんと把握できて,そこいらの新米エンジニアなんかもう泣いてごめんなさいしちゃうくらいの迫力があるという感じの人。今のIT業界って,私も散々取材を受けてるけど,ぶっちゃけ取材する側がレベル低すぎていいものも悪いものも区別ついてないから,派手目な話だけで終わっちゃう。

 その通りである。返す言葉もない。もちろん,羽生氏がこの文章を書いた目的は「取材する側はもっとしっかりしてほしい」という叱咤激励であり,メディアをけなす意図はないことはわかるのだが。

近道は存在しない

 デブサミTestのパネル討論では,「テスト」という言葉と同じくらい頻繁に出てきた言葉があった。「コミュニケーション・ロス」である。いわゆる上流工程と下流工程の間,プログラマとテスト担当者の間,個々の開発者の間など,あらゆるギャップに「伝言ゲーム」があり,そこにコミュニケーション・ロスが生じている。開発者の苦しみの大半は,コミュニケーション・ロスに起因していると言っていい。

 私は以前,あるソフトウエア開発者に「なぜそんなにたくさんの勉強会に参加しているのか,理由を教えてほしい」と言われ,ライトニングトークス(10人程度の発表者が5分間の短いプレゼンテーションを競うもの)で発表したことがある(発表資料)。「自身の知識が足りないのを補う意味もあるが,それ以上に,尊敬する開発者の『人を信じる力』に惹かれるものがある」といった内容だったと思う(関連記事)。

 ここで言ったことがウソだったわけではない。しかし,キレイゴトすぎる。「何か大切なことを言っていない」という感覚をぬぐいきれなかった。自分を動かすものの核には「焦燥感」のようなものが確かに存在する。その正体がわからない。

 「自分が恐れているものも,やはりコミュニケーション・ロスなのではないか」。最近,そんな風に感じるようになった。取材から記事執筆までの一連の流れは,言ってみれば伝言ゲームである。相手の勘違いや自分の聞き間違いといった単純なコミュニケーション・ロスに加え,「ここから先は当事者しかわからない」という領域が必ず存在する。誰でも「この記者わかってないな」と感じる記事を読んだことがあるだろう。コミュニケーション・ロスが存在する以上,どんな記者でもそうしたダメな記事を書いてしまう可能性がある。ただ,ダメな記事など書きたくはない。だからロスを埋めようとあがく。

 こうした問題意識は目新しいものではない。私が日経BPに入社する前後に読みあさった一連のルポルタージュ,鎌田慧氏の「自動車絶望工場―ある季節工の手記」(講談社発行),大熊一夫氏の「ルポ・精神病棟」(朝日新聞社出版局発行),沢木耕太郎氏の「一瞬の夏」(新潮社発行)などは,いずれも「取材者は当事者になれるのか,なっていいのか」というテーマを投げかけるものだった。

 ただ,当事者になりさえすればいい記事を書けるかというと,それは違う。自分はいつも当事者の感覚に近づきたいと思っている。ロスを埋めたいからだ。その意味では,当事者になってしまうのも「アリ」だろう。しかし,「自分は正しい情報を伝えられる」と無邪気に信じる専門家気取りになったらおしまいだ。そんな批判精神のない人間に力のある記事が書けるとは思えない。

 結局,近道はないのだ。新入社員のころに先輩にたたき込まれた記者としての基本動作を愚直に繰り返すしかない。「これから起こりうる事態の仮説を10個挙げる」「仮説はすべて取材でつぶす」「必ず裏を取る」「足を使う」,そして「自分の考えは決して信じない」。いつも忘れそうになるのでここに書き留めておく。

 加えて,専門知識を少しずつ積み上げていかなければならない。それが記事を書く際の基礎体力になる。方法の一つは,実際に手を動かすことだ。コードを書く。電子回路を組み立ててみる。今は,そんな入門者レベルから始めるしかないのだろうと思っている。