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 会場に入ると、見慣れない光景が広がっていた。入口付近に10人以上の男性が固まり、ものすごくデカい声で言い合っている。「何でぃ何でぃ、喧嘩かぃ」と腕をまくってみたが、みな興奮しているがバカ笑いしている人もいたりして、揉め事という風でもない。近寄って聞くと、音声は中国語のようである。

 場所は東京美術倶楽部。「正札市」という、新古美術品を1万点も集めた年に2回の大展示即売会での光景である。知り合いの美術商に「何ですか、あれは」と聞くと、「何だかこの会を目あてにしたツアーの参加者らしいですよ。いやぁ、大勢来てくださるのはいいんですけど、手癖の悪い人も混ざっちゃっているみたいで」という。何でも、会場での盗難事件がこのところ、すごい勢いで増えているのだという。

逆転

 10年くらい前まで、日本でよく見かける中国人の美術関係の業者といえば、いわゆる「担ぎ屋」という人たちがほとんどだった。どんな手段を使うのかわからないが、母国で大量に美術品を仕入れ、無事に税関をすり抜け、日本に持ち込む。それを担いで古美術商などを回り、「卸売り」するのである。メインは贋物なのだが、「わざわざ仕入れるより掘ってきた方が安い」ということか、かつてはビックリするような発掘の名品が混じっていたりすることもあったらしい。

 美術品の価格は需給バランスで決まる。そんな人が増え供給過剰になり、さらには贋物が市場にあふれた結果、日本市場における中国美術品の価格は暴落した。それを受けて仕入れ原価を抑えたためか、担ぎ出されてくる美術品の質も下がり、粗悪な贋物が増え、さらに市況は悪化していく。そんな負のスパイラルが続いていると思ったら、4~5年くらい前から急に、日本に古くから伝来している中国美術品の里帰りが始まったのである。今や、日本で見かける中国人美術商の大多数が担ぎ屋ではなくバイヤー、つまりは買い出し屋である。

 おかげで、中国の古い漆芸品、書画、磁器などがものすごく値上がりしている。「10年前は数万円で取り引きされていたものが、中国人バイヤーに数百万で売れた。それでビックリしていたら、それが上海でオークションにかけられて、数千万の値段がついたと聞いたときは腰を抜かした」などという景気のいい話をやたらよく聞く。この前まで日本の古美術品をもっぱら扱っていた国内の業者さんが、にわかに「中国美術専門店」に看板替えするケースも珍しくないらしい。現代中国製の贋物は今でもどんどん入ってくる。そして、時代を超えて賞玩されてきた価値ある本物は、どんどん日本から中国に流出しているのである。

対照

 この激変ぶりは、もちろん中国における富裕層の購買力が飛躍的に上がったことを示している。そして、この現象には先例があった。韓国である。

 朝鮮半島の美術品、特に李氏朝鮮(李朝)時代に焼かれた陶磁器類を日本人は桃山の昔から愛で珍蔵してきた。その価格が、1990年代に急騰したのである。韓国財閥の幹部などが、熱心に買い戻しをしていたのだという。この業界における「李朝ブーム」は、1997年のアジア通貨危機まで続いた。

 そして、今回の中国である。その日本における「埋蔵量」と中国における富裕層の厚み、経済成長の規模などを考え合わせれば、今回のブームはよほど長期に渡る、すさまじいものになるのかもしれない。

 そんなことを考えつつ商品を眺めていると別の知り合いが近寄ってきて、ため息混じりにこうこぼしていた。「いやー、すごく安くなったでしょう」。茶道具など日本の美術品の話である。それでも一級品はまだいい。いわゆる「二番手」という、それに準じる作品などは、新しいもの古いものを問わず、悲惨なほど下がっているのだと彼はぼやく。つまり少数の、筋金入りのコレクターは今でも買い続けている。ところが新たにコレクションを始める人は少なく、市場全体としては縮小しているということなのだろうか。

 そういえば、著名な東洋文化研究家であるアレックス・カー氏が、こんなことを言っておられた。「日本というのは本当に不思議な国です。経済的に豊かになればなるほど美術品の値段が下がるのですから。世界の常識は逆。豊かになれば美術品の値段は上がるものです。特に古美術品は、数が限られているから目立って高くなる。ところが、日本だけが世界の常識とは違う。これだけ高い水準の芸術や文化を生み出した歴史をもつ国が、どうしてこうなってしまうのでしょうか。理解できない」。

必要

 アレックスは日本の状況を「工業モード」と呼ぶ。日本は蛍光灯、プラスチック、看板、コンクリート、プレハブだらけの工業モードの国になってしまったと。「国の予算のうち、土木・建築が占める割合は、ヨーロッパが6~7%、アメリカが8%ですが、日本は40~50%。コンクリートの使用量を国土の単位面積あたりで比較すると、日本はアメリカの33倍。日本は世界のスタンダードとはケタ違いの異質さなのです」。経済的に豊かになったから自然や文化の保護に力を入れるのではなく、どんどん土木工事を増やし美しい山河をコンクリートで固める。美しい伝統的な街並みを壊し、周囲の景観とはまったく溶け合わない施設を作る。こうして、この国にあった文化・伝統を台無しにしてしまっていると彼は嘆く。

 以前、滋賀県にある佐川美術館を訪ねた折、同館にある佐藤忠良館にこんな文句の書が飾られているのを見た。いわく、「藝術は人生の必要無駄」であると。なるほど、と感心した。無駄なのである。それを生んだり買ったりするのにお金はかかるけど、とりあえず何の役にも立たないものなのである。それを排除するのが、工業の鉄則である「ムダどり」。つまり「工業モード」は「芸術排除」の言い換えにすぎないということか。

 いやいや早とちりしてはならない。芸術は無駄、ではなく必要無駄だと佐藤忠良先生はおっしゃっている。この「必要」の一言が、たぶんとても重要なのである。私は芸術に愛情と畏れを抱く人間なので、もちろん必要だと思っている。そうでもないと思っておられる方が多いということが、今日の状況を生んでいるのだろうけど。そして、芸術以外にも「無駄のようだけど本当は必要」というものが、いっぱいあるような気がするのである、どんな無駄も無駄には変わりがないから捨てちゃえ、というのは、どうも違うのではないかと。いや、別に証拠はないのだけれど。