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 人権を守ろうとする法律は「人権」を持たない自然にも適用されるのだろうか? この意味で、1970年代初頭は環境思想史上、大きな節目だった。人権を持たない自然に「人権」があるとみなして法律の適用を考える思想が登場してきたからである。

 人々の心の反映である社会思想は、世の中の変化を受けて発達する。70年4月に米国で「アースデイ」が開催され熱狂の渦に包み込んだ。そして72年、アルネ・ネスが『浅いエコロジー運動と、射程の長い深いエコロジー運動』を、クリストファー・ストーンが『樹木の当事者適格─自然物の法的権利について』を、73年にはピーター・シンガーが『動物の解放』を著した。これらの論文によって、いわゆる「生命中心主義」の思想が出そろった。これ以降、「人のために自然を守ろう」とする思想の限界を超えるかのように「自然に権利を認めよう」という思想が画期的な発達を見せるのである。

 これらのうち、ネスの思想は哲学として発達し、東洋哲学に親近感をいだかせるものになり、シンガーの思想は功利主義思想を主軸に倫理や権利論へと射程が伸びたのに対して、ストーンの思想は法廷闘争のための法律論という色合いが強くにじみ出た。ストーンは72年の論文をたたき台にして、85年に『大地やその他のことに関する倫理学─道徳多元主義擁護論』を著す。

 欧州においても、中世社会においては動物を裁判にかけたり、あるいは人定法の前に自然法が存在しているといった考え方があった。法律そのものという観点で見ても、人道主義的な自然保護として1596年に英国チェスター地方でクマ攻めを禁じた法律があったりもした。

破壊される自然の「人権」を誰が守るか

 しかし、近代になってからは、法律は人間が創り上げたもので、人間にのみ適用されるものであるというのが社会の常識となっていった。当然のことながら樹木や河川といった人外の存在が害を被っても、地元住民の被害という観点を除けば、直接的には法律の適用外である。ある老木が、道路拡張のために切られようとしている時に、言葉もしゃべれず文字も書けないのだから、法律に守ってもらうことも裁判に訴えることもできない。「人権」そのものが認められていないのだから当然ともいえる。

 しかし、人外の存在に法的権利を認めることは、実は現代は往々にして見られることなのである。法人でも学校でも地方自治体でも、人格があるわけではないが法的権利をもっている。では、人外の存在がどのようにして訴訟などに持ち込むのかといえば、後見人を立てることによる。同じように自然物も、人間が代理人となることによって法的権利を主張することができるはずだとストーンは論じたのである。

 こうしたストーンの思想は、権利の拡大が人外の存在にまで及んだとする環境倫理と対をなすものである。過去において、いかに人間を人間として定義するかによって法律そのものも変化してきた。奴隷を商品としてみなした時代に奴隷に人権がなかったように、自然にも人権は認められなかった。しかし、進んだ意識で見れば自然にも「人権」は認められるべきだし、それならば法律も適用され裁判にも持ち込めるというわけである。