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東京農工大学大学院技術経営研究科教授
松下博宣

 多くのキリスト教の牧師や神父はパウロの「ローマ人への手紙」や創世記の有名な部分を熱心に解説する。しかし,彼らがあまり積極的に言及したがらないテキストがある。それは旧約聖書の「ヨシュア記」である。ヨシュア記は,創世記,出エジプト記,レビ記,民数記,申命記から成る「モーセ五書」に次ぐくらい重要なテキストとされる。

 ヨシュア記とはイスラエル民族によるカナンの地の征服物語である。モーセの後継者ヨシュアが,イスラエル民族を指導して,ヨルダン川を渡りエリコの戦いを遂行,先住民を皆殺しにして約束の地カナンを征服し,シケムで神と再契約するまでの記述である。マックス・ヴェーバーは,「モーセ五書と士師記とを連結させるためにBC400年頃までにヨシュア記は編集された」として,ヨシュア記を含めて「モーセ六書」にすべしとの考えを示している。

 さて,ヨシュア記は日本人には理解しがたい部分が多い。もし,キリスト教の入信希望者を前に牧師や神父がヨシュア記の解説を始めたとすれば,びっくり仰天して入信を諦める人々が続出するのは必定だ。ヨシュア記は大量殺害,皆殺し,ジェノサイド(特定の人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行為)のオンパレードで,愛と平和の対極にある物語だからだ。

 しかし,この物語を読み解くコツは,皆殺しを愛と平和の「対極」ととらえるのではなく,それらは分かち難く「表裏一体」を成していると腑に落とし込むことである。これは一神教を信奉する人や国の,ある側面を理解することにつながり,一神教の国の企業とビジネスをするときのインテリジェンスの機微を得ることにもなる。

残忍,無慈悲な大量殺害は神の栄光を増す

 ヨシュア記のテキストをひも解けば,すさまじいまでの大量殺害に満ちあふれている。一部だけを読んでみよう。

 「七度目に,祭司が角笛を吹き鳴らすと,ヨシュアは民に命じた。ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金,銀,銅器,鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから,主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると,民はときの声をあげた。民が角笛を聞いて,一斉にときの声をあげると,城壁が崩れ落ち,民はそれぞれ,その場から町に突入し,この町を占領した。彼らは,男も女も,若者も老人も,また牛,羊,ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした」(ヨシュア記6:16~21)

 「主はヨシュアに言われた。『おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す』(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人,アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで,投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった」(ヨシュア記:81~26)

 「ヨシュアは命じた。『洞穴の入り口を開け,あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ』。彼らはそのとおりにし,エルサレム,ヘブロン,ヤルムト,ラキシュ,エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると,ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ,彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに,『ここに来て彼らの首を踏みつけよ』と命じた。彼らは来て,王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。『恐れてはならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対して,主はこのようになさるのである』。ヨシュアはその後,彼らを打ち殺し,五本の木にかけ,夕方までさらしておいた」(ヨシュア記10:22~26)

「殺すなかれ」はユダヤ・キリスト教の内輪だけ?

 殺してはいけないという戒律はユダヤ教徒の内側にのみ有効で,異教の民には適用されない。神が殺せと命ずれば,それは絶対的な命令である。人間の判断が入り込む余地は微塵もない。もし,人が倫理や感情を持ちだして神の命令にそむけば涜神(とくしん)となってしまう。したがって,命令=契約を素直に,忠実に実行するのが正しい信仰の姿なのである。命令=契約に対して一切の疑義をさしはさむことはできない。

 かつてソドムの件(前講を参照)では,神を値切ったアブラハムであったが,「ひとり子イサクを焼いて犠牲(いけにえ)にささげよ」という神の命令には忠実に従った。実際のひとり子殺しは結局実行されなかったものの,内面の信仰としては忠実に実行された。ここにおいてイサクの犠牲という贖罪(しょくざい)は行為と内面の信仰という二つのパートによって構成されるのだ。後に出現したキリスト教は,イサクの犠牲のアイデアから,「行為でなく内面の信仰が優越する」というアイデアを導出した。さらに後世に及んでは,内面の信仰は「信仰の自由」へと拡大され,近代デモクラシーにつながっていく。

 こうして救世主の受難,贖罪死というキリスト教の根本的な教義が確立していった。キリストの贖罪死によって絶対的無制限の愛(アガペ)が表出,発動されて人類の原罪は許された,とするアイデアの契機は旧約聖書に由来する。