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「ゲームの次」を探る挑戦

 スポットメッセージは比較的小規模なアプリケーションである。ユニークな機能を実現しているが、現時点では課金や広告などの仕組みは組み込まれていない。バンプールの本業であるゲームソフトでもない。では同社がスポットメッセージを企画・開発したのはなぜか。

 本業であるゲームの「次」となる新分野の開拓がその狙いだ。バンプール ソフトウェア事業部の中村圭三氏は、新規参入できる余地があり、「伸びしろ」がありそうな分野として、Androidに注目したと語る。

 同社がAndroidに取り組もうと決めたのは2009年1月のこと。当時、日本国内ではまだAndroid搭載スマートフォンは発売されていない。

 「Androidがオープンソースである点も注目した理由だった」と中村氏は話す。中村氏は、以前ゲームプログラミングを手がけていた事があり、いざとなれば中身に触れることができるオープンソース・ソフトウエアである点がAndroidの大きな魅力と感じられたのだ。「アプリケーションだけではなく、ミドルウエアやツールの部分にも可能性があると感じた」。

 中村氏の元で、スポットメッセージの企画に取り組んだ日野綾香氏は、次のように語る。「バックグラウンド動作など“iPhoneではできないがAndroidならできる事”があり、面白いと感じた」。

 とはいえ、調査研究の性格を持つプロジェクトであり、投入できるリソースは限られる。日野氏は「開発コストを抑えつつ、どれだけ新規性があるアプリケーションを作れるかという戦い」だった、と振り返る。

 Androidで実現できる機能をリストアップし、それらを使って何ができるか、ブレーン・ストーミングを繰り返す。多くのアイデアを出し、感覚面の評価、コスト面の評価を組み合わせて絞り込んでいった。最後に残った3案から、選び出したアイデアは、地図の上で「罠」を仕掛ける「Map Trap」という企画だった。これがスポットメッセージの原型となった。

 バンプールにとってスポットメッセージは、ゲームの次に取り組むべき新分野を探るための挑戦だった。

異なる文化、歩み寄る

 バンプールと、プログラム開発を担当したブリリアントサービスの出会いは、2009年2月のことだった。ブリリアントサービスが開いたAndroidのセミナーにバンプールから担当者が訪れたのだ。

 ブリリアントサービスの近藤昭雄氏は、すでに日本国内のAndroidコミュニティでよく知られていた技術者だった。2007年11月12日、最初のAndroid SDKがリリースされた日に「Google Androidに関する情報のまとめwiki」と題するWikiサイトを開設したのをきっかけに、早い段階からAndroidに関する情報発信を始めていた。Android開発者コミュニティ「日本Androidの会」の発足時点で、幹事として参加している。

 当初はAndroidに関するコンサルティングを依頼される形で、近藤氏はブレーン・ストーミングに参加した。結局、近藤氏はプログラム開発を担当することとなる。

 プロジェクトに関わってすぐ、近藤氏はゲームソフトの世界で活動してきたバンプールの文化は、組み込みソフトウエアの世界の文化とは異質であることに気付いた。組み込みソフトウエアの世界では、設計書、仕様書を作り、大勢の開発者が参加して実装する。バンプールの開発スタイルは、それとは異なっていた。ゲームソフトの開発では、開発中のプログラムを見てから修正することが、当然と考えられていたのである。バンプールの中村氏は「私たちの感覚では、むしろ当初の設計通りに進めていたのだが、やはり文化の違いはあったと思う」と振り返る。

 しかし文化が違う両者が組み、そのギャップを乗り越えたことが、結果として独創的なアプリケーションを生み出すことになった。

 近藤氏は、文化の違いに対応するため、いわゆるスパイラル型の開発スタイルを取り入れた。実際に動くプログラムを作り、それに対して修正を入れる形で開発を進めていった。

 前述したように、開発に着手した段階では、アプリケーションには「Map Trap」という名称が付けられていた。地図の上に「罠」をしかける、というゲーム性が強い企画である。

 開発の最終段階で、この企画は現在のスポットメッセージの形に変更された。「罠」から「メッセージ」へ。「いたずら」するというゲーム性が強い企画から、実用も視野に入れたサービスへの変更である。新分野を開拓するというバンプールの目的にもかなっていた。ADC2の入賞は、この企画変更が有効だったともいえる。

 ただし、プログラマの立場からすると、これは大きな仕様変更である。ADC2の応募の期限がありリリースのスケジュールが決まっていたため、近藤氏は2009年8月、一度はほぼ完成していたプログラムを、大至急修正することになった。「地獄の夏でした」と近藤氏は振り返る。