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 環境問題の悪化に伴い、従来の諸学問が大きく変容を遂げようとしている。緑化されたマルクスとして「エコ・マルキシズム」が現れて、「赤い」マルクス原理主義と対峙している。経済学においては労働価値説に対して自然価値説が現れ、法律においてさえ人間以外の存在へと権利が拡張される根拠が提出されている。

 特に、倫理においては、自然を守るための環境倫理が著しく発達し、従来の人間同士で通じていた倫理の限界があらわにされてきた。その結果、従来からあった人間同士の倫理は時代遅れの役立たずになったように思われがちとなった。そうした風潮に対し、伝統的に存在した人間同士の倫理でも十分に自然保護の根拠になり得ると主張したのが、オーストラリアの哲学者ジョン・パスモアである。パスモアは、どのような根拠で人間のみに通じた倫理を自然保護にまで拡張できると考えたのだろうか。

 パスモアは、自然に権利を拡張するのはお門違いで、それよりも未来世代に環境破壊の負荷を残すべきではないという立場である。従って、生態系や自然の保護というよりも、環境問題や資源問題への対処が課題として提示される。それでは従来から行われてきたテクノセントリズム(技術中心主義)と変わらないように見えるが、多くのテクノセントリストが特別な哲学や理論を持たず従来の常識の延長上で資源の保全を唱えているのに対して、パスモアは人間中心の保全論をヨーロッパの伝統や汚染の問題、人口問題、伝統の再考といった各視点から検討し、大きく解釈し直しているのである。

 パスモアは西欧文明による環境破壊抑止の可能性を、独自の歴史分析によって展開する。パスモアも反省から論を始めている。つまり、環境問題の原因を西欧文明に求めているのである。ところが、だから西欧がダメだという結論には導いていない。歴史分析の結論としての神秘主義、原始信奉主義、権力主義は極端な形態とみなしている。またパスモアは、環境保全のために新しい倫理が必要であるという意見についても疑問を呈している。例えば、新しい倫理・哲学・思想・宗教などを模索する動きの中には東洋思想にその可能性を見いだそうとするものもある。しかし、キリスト教の問題を指摘したリン・ホワイトも、アジアの歴史によって条件付けられている思想を西欧が単純に受け継ぐことは不可能だと見ているのであり、東洋宗教に自然に対する積極的配慮は見られないとして、仏教やヒンズー教の名を挙げている。ここらへんから、生態系保存論、動物解放論、ディープエコロジーあたりへの懐疑論がうかがえる。

 では、西欧伝統のキリスト教はどうとらえるべきか。キリスト教とユダヤ教の「創世記」がいかに大きな問題かは、地上の支配権の問題だけではなく地上に降りたアダムの生活にも表れているのだと、パスモアは手厳しい。アダムはエデンの園では菜食主義であったが、呪われた地に追放されてからは動物を殺して食べるようになった。つまり堕罪以前は動植物の支配者だった人間が、堕罪以降は暴君になったのだと指摘する。しかし、その反面で旧約聖書では、地のすべての獣や空の鳥や地をはうすべてのものに青草が与えられ、ノアの洪水後にすべての種類の生物が地に群がり地上に増え広がるように教え、人間が羊と家畜の世話をすべきであるとした。従って、旧約聖書の限りでは動物の運命を完全に人間に委ねたわけではないことが明らかだと指摘する。