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 平将門は地元の誇りである。茨城最大の英雄と言えば、文句なく平将門だろう。義理堅く人情味があり、しかも武勇の誉れ高い。私の周辺だけでも、将門にちなむ史跡がいくつもある。将門と戦って破れた伯父・平国香の墓だとされる碑が、歩いて数分の近所にあり、宍塚という場所には947年(天歴元年)に将門の次男・将氏の娘・安寿姫が建立したという伝説の般若寺という寺がある。市の中心にある土浦城(地元では亀城公園の名で親しまれている)は、もともとが将門のとりでから始まっているとされている。

 史跡以上に、将門の伝説の数は多い。私もかつて将門伝説を集めたことがあるが、その量の多さに驚いた。西は広島あたりにまで将門伝説が残っており、数の多さは日本の武将でも全国一を争うかもしれない。これらの伝説の中には、単に伝説そのものを楽しむだけでなく、環境思想のような学問の立場からも興味深いものがある。民俗学なども伝説を多く取り上げるが、北欧の「エッダ」が気候変動を神話として比喩的に描いているように、地方の伝説の中にはその土地の風土・気候が生み出したものが見られるからである。同時に、そこには一種の土着の思想性が見られることがある。ネネ・デュボスが述べた土地に内在する力がなせるわざかもしれない。

 平将門の伝説にも、関東が感じられる。私の住んでいる土浦という町は関東平野の中央に近く、限りなく続く田園地帯の真ん中である。夏になると、その果てが見えぬ彼方まで広がる田んぼの上に、小さな黒雲が浮いていることがある。数百メートル程度の低空に浮かぶ、その小さな雲は、中に雷を持っているらしく、ゴロゴロと音を立てている。どうにも不思議なのは、一般的な、いわゆる雷の色とは異なり、ほとんど血を連想させるような真っ赤な色に黒雲が染まることである。平将門公の首が、その中にあって関東の人間を守っているのだと言われているという話を、少年のころ、誰かに聞いた記憶がある。地形と気候が、そうした雲を作り上げているのだろうが、今もって新たな将門伝説が生まれているのかもしれない。

 平将門というと、粗野な田舎者の代名詞のように思われがちだが、そもそもは天皇家の血筋を引いているから、貴賓の出である。平安京を建設した桓武天皇、その子・葛原親王から高見王を経て、高望王の三男とも次男ともいわれる鎮守府将軍平良将の子であるから、天皇から5世後の子孫ということになる。高望王は臣籍降下して平性を賜る。これが平家の始まりである。皇位継承権も財産もないのだから、都にいても仕方ないということで平高望は新天地を求めて関東に入り、各地を開墾して現在の茨城県から千葉県にかけての広大な田畑を子孫に残した。将門の父・良将は、常陸国から下総国にかけての地域(千葉県北部から茨城県南部)に所領を有していたが、父の死後に、将門の親族がこの領地を占有したため、将門と、国香、良兼、良正といった伯父・叔父たちとの戦いが開始された。

 この段階では、一族間の私闘にすぎなかったが、ならず者の藤原玄明なる人物が、常陸国の不動倉を破って追捕令を出され、将門がこの玄明をかくまったところから問題は大規模になっていく。「窮鳥懐に入れば」ということわざがあるが、義侠心に富み、人情味が厚い将門は、常陸国府からの玄明引渡し要求を断り、軍兵を集めて常陸国府中へ出向いて追捕撤回を求めるたところ、これを国府側が拒否して、戦闘を仕掛けてきたのである。国府との戦闘とは、国家との戦闘に等しい。将門は国家に対する反乱者となったのである。「承平天慶の乱」が本格化した。

 平家にも源氏にも勇者は多いが、この将門の武勇は抜きんでている。個人的な武芸が抜群であるだけでなく、戦にも強い。戦略家としてはともかく、戦術家としては相当なもので、いつでも少数で戦っては勝利している。『将門記』によれば、承平五年(935年)2月、源護の子・扶らが常陸国真壁郡野本(筑西市)にて待ち伏せして奇襲するが、将門は接近戦に出てこれを撃破、扶らを逆に討ち取り、勢いに任せて進撃し、護の本拠を焼き討ちにしている。同年10月には、叔父・平良正と新治郷川曲村(八千代町)で対戦して、これも撃破。承平六年(936年)7月、良正を救援するために出てきた良兼と戦い、圧倒的に多数かつ装備の整った良兼軍に奇襲を加えて撃破している。そして、反乱のきっかけとなった天慶二年(939年)11月の常陸国府軍との戦いでは、国府軍3000人に対し、将門軍1000人と三分の一ながらも圧勝している。

 常陸国衙を陥落させた将門に、側近となっていた興世王が将門をそそのかす。興世王という人物も問題が多く、武蔵国権守となっていながら、武蔵国守百済貞連と仲違いし、将門を頼ってきていた。『将門記』では、興世王はこう述べたという。「一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム」。つまり一カ国盗んでも罪になるならば、いっそのこと関東を制圧して様子をみてはどうだというわけである。将門は、一気に行動に移った。下野国、上野国を制圧し、各々の印綬を入手し、ついには関東八州を占領して「新皇」宣言を行い、除目を行って関東を独立王国化し、岩井を本拠地としてに政庁を置いた。

 この辺の心情はよく分かる。頭に血が上ったのである。なんとも茨城人らしいというか。かって、戦争に参加した地元の人の話を聞いたことがあるが、頭上を弾丸が飛び交うなか、塹壕に籠もっていると、だんだん我慢できなくなって、突撃命令を出すよう指揮官に頼むのだそうである。弾に当たっても突撃をしたいというわけである。その精神は今も続き、信号機が赤になると加速して突っ切る車が後を絶たない交差点が近所にあるが、老若男女例外なく、この信号無視をやっている。こうした人情の土地柄である。ともかく、突撃をやらせたら日本一ということで、将門も国家に向かって突撃してしまったのだ。もちろん、基本はお人好しであるから、国府の役人の命をとることもなく、かって従えた都の貴族・藤原忠平に、自らの心情を吐露し、都に反旗を翻したわけではないことや、関東独立を願うことを記した手紙を送っており、世界各地で起こった後々の革命事件と比較すれば、凄惨さも陰惨さも皆無の、陽性の反乱であった。

 しかし、野蛮な開拓地と見られていた関東での反乱に、都はパニック状態となる。時あたかも、西国では藤原純友が海賊を率いて略奪の限りを尽くしていたから、将門と純友が共謀しているという憶測まで生み出し、七大寺での怨敵退散祈祷やら、八大明神への供物奉納やらと、なんとか将門が倒されるようにと必死となる。いかに将門が恐れられていたかは、『源平盛衰記』『太平記』『俵藤太物語』と後代に出来た物語が、都からみた将門像の恐怖を書き記していることで推測できる。たとえば、『俵藤太物語』で描かれた将門は「その有様まことに世の常ならず。丈は七尺に余りて、五体は悉く金なり。左の御眼に瞳二つあり。将門にあひも変らぬ人体同じく六人あり」とされている。将門が黒金で出来ているとか、片方の目には瞳が二つあったとか、七人の影武者を呪術で作り上げていたとか、まるで化け物扱いである。影武者と本体とを見抜く方法は、本体には影があるが、影武者には陰がないというもの、影武者はわら人形であり将門だけが寒い日に白い息を吐くというもの、斉戒沐浴して朝日を排する時に免状に水煙が立つのが本体だというもの、成田不動のお札により七変化の妖術が破れたというものなどバラエティに富んでいる。そして、鉄の身の将門の唯一生身の肉体がこめかみであったことを知った俵藤太秀郷が、こめかみめがけて放った矢が当たり、弱点を見破られたと高笑いして死んだという豪快な話も残っている。