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 将門は中央政府にとっては脅威であったため、死後は日本一の魔王扱いを受けたが、地元では、生きている時には英雄であり、死後は守護神である。各地に将門信仰が生まれた。将門の本拠地であった岩井近くを流れる利根川を下った木野崎には、隠れキリシタンのマリア観音さながらに、大黒天を将門に見立ててのほこらがあり、小金ヶ原(柏市から松戸市に至る地域)にある「矢の根様」の祠も、矢に当たって死んだ将門にちなむものらしい。やはり、その近辺の相模台史跡には、将門が民衆を指揮して新田開発した旨が記されている。手賀沼布勢瀬の対岸にある日季には、その名も将門明神があり、その近辺の人たちが、将門と対立している成田山への参詣者の通過の邪魔をしたこともあったらしい。将門の死が矢に当たったことは確かなようだが、こめかみ、右目、眉間と様々な伝承が伝えられており、手賀沼南岸の将門神社には片目女神像があるが、これは将門の最後が右目であったということに由来する。佐倉市にも将門神社がある。

 将門を祭った神社は、神奈川県小田原市にも埼玉県にもあり、広く関東で将門が信仰されていたことが伺える。茨城県ともなると、将門と地元を結びつける地域は実に多く、将門生地、将門死地の本家争いすら存在している。岩井にある国王神社は、地元民が将門を思慕して創設されたものであるが、明治時代になって祭神を大国主命にするよう命が出された。しかし、大国主を合祭するところまでは譲歩したが、将門の除去には絶対反対して受け付けなかった。そして大正時代になって、国王という名は不遜であるから国玉に変更せよと言う警察命令が出たときにも突っぱねている。

 将門といえば首というわけで首にまつわる伝説はやたら多い。都内の大手町にある首塚は、今でも怪談話でテレビや本で語られることが多いが、首塚は、京都から将門の根拠地・岩井に至る道沿いの各地に存在している。獄門にさらされた首が岩井に飛んで帰ってくる途中、各地で休憩したため、その場所すべてが首塚として残ったのだという説もあるぐらいである。ちなみに地元では将門の胴体の伝説も残っている。将門が最後をとげた合戦の夜半、付近の農家を尋ねてきた武者がいたが、首がない。この首なし武者は、一晩かくまってくれることを依頼し、翌日の早朝に、再起を図るために奥羽をめざし落ち延びていった。その際に、自分のことを黙っていてくれたら家を栄えさせよう、密告したら七代で滅ぶようにすると伝えて去った。ところが、その家の者は恩賞欲しさに密告し、七代後に滅んでいった。また、現在の神田明神のある場所も、将門の胴体が首の後を追ってきて倒れたところだという話もあり、神田の名の由来も「からだ」であるという説がある。神田明神ほど大規模でなくとも、各地に残る地名でも、茨城県取手市(将門のとりでが由来)とか、都内の兜町(将門の兜が由来)とか。

 将門の敵が嫌われるのも当然で、千葉県の湖北の中峠地区には、将門を討った俵藤太秀郷を嘲笑するための簑笠不動という祠があって、行き交う人が唾や小便をかけるという慣習が続いていた。秀郷だけでなく、千葉県佐倉市将門町や我孫子市日秀や取手市米の井にある桔梗塚は、将門を裏切った娘が桔梗という名前だったということで、桔梗が咲かないということであるが、茨城県結城郡八千代にある仁江戸地区では、桔梗で染めた浴衣から手ぬぐいに至るまで、桔梗にまつわるものは一切使わなかった。また仁江戸地区にある御所神社の前を葦毛の馬で通ると必ず怪我をしたというが、それは将門が乗っていた馬が葦毛だったからだとされる。日秀でも桔梗は忌み嫌われ衣服器物に至るまで桔梗の花形があるものは使わず、子供でさえ花を見て桔梗かどうか確認してから触れたという。将門の根拠地・岩井では将門を調伏したという成田山への敵がい心は強く、昭和の時代になっても参詣しない人が多かったらしい。また、この地方ではキュウリが食べられないという慣習があったそうだが、これもキュウリを輪切りにすると種子の配列が九曜の星形になっていて、将門の家紋にそっくりだからだという。

 土地の人たちが将門を慕うことは、現在も続いている。かってNHK大河ドラマで将門が描かれたことがあったが、将門の根拠地近くのロケ地で、地元の人たちが俳優の演じる将門の活躍を、ひざまずいて見ていたという話を聞いている。

 しかし、こうした崇敬の念は、単に、「かってこの地に平将門という強い人がいた」という、地元の誇りレベルのものではない。遠く江戸時代になってからも、農民が一揆を起こすときには、将門に祈ってから開始したという話が、人々が将門に何を期待し、何を見ていたかを象徴している。反逆者・将門は、同時に弱者の味方であり、搾取に苦しむ者がいれば、いつでもその味方をしてくれる存在なのだ。反乱のきっかけからも分かるように、将門は義侠心に富み、人情味が厚く、そして頭に血が上りやすい単純な性格であるが、同時に関東の象徴であった。それは、将門の祖父・高望の開墾が象徴している。

 土地生産力から見て、関東は日本有数の肥沃さを誇り、その広大さも含めれば日本最大の穀倉地帯になる可能性を秘めていた。つまり将門以前から、関東は力を持った豊穣の地となる可能性があったのだ。というよりも、縄文時代中期には関東の人口密度は日本一で、100平方キロ当たり近畿地方が8人たらずのところを、関東は300~450人にもなっていたのである。それが弥生の水田システムが導入されてきた段階で変化する。水田システムは、大量の水を供給する保水地か必要となる。初期において水田への開墾は、より手間の少ない河川流域に限られていた。となると、河川と狭い平野の畿内は、最も早くに多くの水田を備えることに成功する。広大な関東平野で、井戸を掘りるという手間をかけながら大規模開墾を行うのは労力的にも困難が伴う。人々の目が、関東に向かうのは、畿内があらかた開墾され尽くした後であるが、その段階では近畿地方の日本全体への覇権は確立していたのだ。

 新天地を目指して関東に向かった人たちの中に平高望もいた。地球は定期的に暑くなったり寒くなったりするが、奈良の大仏が登場したころから、温暖期に入っていく。温暖期には関東の豊穣さが増し、関東の力が強大になる。西国が暑さのために飢饉が続くとき、逆に関東の力は巨大になった。高望が関東に入ったときには、まさに地球が暑い時期であり、関東開拓の絶頂期でもある。高望は老いて自らが開墾の鋤をとれなくなると、こしに乗って人々の開墾を指揮したという。将門もまた、毛野川(鬼怒川)の治水工事をはじめ開墾にいそしんでいる。各地が開墾され、関東は開拓地主が点在する地方となる。農耕は環境破壊するとされるが、関東開拓はすべてを破壊し尽くさず、縄文の植生が里山として維持され、縄文と弥生が共存する姿をとった。そして、開拓した土地こそは、板東人の命であった。ところが、この「関東の価値観」を中央政府は受け入れなかった。

 日本が統一国家を形成する中、導入されたのは中国の唐がとっていたのと同じ律令制度である。律令制度のもと、すべての土地は国家に属する。苦労して開墾した農地は、農地となると同時に「公地公民」の原則によって国家に組み込まれていく。関東の人間は、これを中央による搾取とみなした。後に荘園制が別種の搾取を関東に強いたのである。従って、関東人が求めるのは、古代において防人が嘆いたように、そして平将門が主張したように、「独立」であったのだ。「つくばおろし」に乗って、広大な平野を駆けめぐって形成された気性は、清濁併せ飲む狡猾さよりも、矛盾を矛盾として指摘する単純さとなって表れた。関東は独立すべきだと将門は考えた。それは多くの関東人の願いでもあった。だからこそ、関東の人たちはこぞって将門を支持したのである。地政学的に見ても、広大な平野で統一可能な関東は、他のどの地方よりも独立の原理を持っていたし、それだけの力ももっていたからだ。兵力は、将門旗下だけで八千騎がいたとされるのである。結局、不運な一矢で将門は絶命したが、将門の精神は残った。

 平安時代の末期、さらに地球が暑くなっていく中、関東の豪族たちは、中央から贈られた飾りもの「源頼朝」を頂き、独立はおろか、ついには関東による日本全土の支配を確立する。そして関東が日本の中心になった時、飾りもの「源氏将軍」は捨て去られた。中世の寒冷期に鎌倉幕府は滅ぶが、今度は徳川家康が謀略を駆使して関東に幕府を開く。江戸に開府した家康は関東の鎮守を願って、最大の力を持つ「魔王」将門を神田明神に祭った。やがて徳川幕府は滅ぶが、将門が守護したかのように関東は日本の中心として残った。地球が暑くなり始めた現在、改めて関東の地から「将門公よ、今昔の感如何」と尋ねてみたい気がする。

海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。現在,国士舘大学経済学部非常勤講師。著書に「新・環境思想論」(荒地出版社),「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(NTT出版)など。