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 地球環境の悪化、自然の破壊において、「科学」ははなはだ分が悪い。極端なディープエコロジストだけでなく、ディープエコロジーとは対立している社会派エコロジーにおいても現代科学への批判が出ている。たとえばポリティカルエコロジーの理論家バリー・コモナーなどは、環境悪化の原因を生産技術の拡大に求めている。「科学=環境破壊」というイメージさえある。

 確かに、環境問題に思想的なアプローチをかけていくと、どうしても科学技術に対する点数は辛くなっていく。これには、私自身があまり科学系のことが得意ではないということで、差し引くものも大きいのであるが。もちろん、反論もあるだろう。科学技術こそが環境問題を解決するはずだと。これも否定はできない。幾多の公害を解決してきた科学技術である。

 しかし、環境問題の大元を科学が解決するのはやはり難しいようである。つまり、目の前の個別現象としての環境問題は解決できても、環境問題を引き起こす根本を解決することはできないということである。大方のエコロジストにとって、科学の位置づけは、望まれる全体の中で個別政策を実現するための活躍が期待されるという傾向が見られている。

 しかし、科学の側からの思想的アプローチがないわけではない。例えば、環境問題を解決するための科学技術である「環境テクノロジー」は、自然環境が経済における一つの効用として成立したり、倫理的なものや法的に自然保護が義務づけられたりするときに大きく飛躍するものであるから、「意識と連動したもの」「社会と表裏一体のもの」であるという考え方が出されている。だとすれば、思想的な視点から科学を見るのではなく、科学の視点から思想を再度考えてみるという立場も現れる。こうした視点の持ち主として有名なのが、バックミンスター・フラーである。

 フラーは、今でこそあまり耳にすることもなくなったが、1960年代にはかなりの著名人であった。ジオデシックドームというものを考えだした。ドームの発明家として知られるだけでなく、世界初のソーラーシステムの提唱者でもあった。三つの角を足しても180度にならない三角形があるとか、四角形は不安定だが三角形は安定しているとか、現実世界で幾何学をとらえた面白い物の見方をする建築家でもある。こんな発想のフラーであるから、科学による環境問題解決とは言っても、単なるテクノセントリズムにはならない。フラーは科学技術の全面利用を、地球規模の変革につなげようとする。つまり、「宇宙船地球号」での資源配分を、科学技術の全面的信頼のもとに進めようとするのがフラーの思想である。

 フラーによれば、人間とは「自己平衡的な28の補助部品が結合して、それらに蓄電池の特殊エネルギーのエキスと、あまねく配備された、うまくコントロールされれば70年間助けを必要としない電話システムのような神経システムを積載した二本足の電気機械的還元植物」(『The Roots of Modern Environmentalism』ディヴィッド・ペパア著)である。こうした見方からは人間機械論のニュアンスが感じられるが、同時にフラーは、超物質的な現象が物質を支配できるとも考えているし、人間の能力を信頼してもいる。フラーのいう超物質的な現象とは知性のことである。

 フラーは、人口・工業化・経済成長の制限に加え、地球規模の資源の再配分、化石燃料から風・波・水・太陽へのエネルギー利用の転換などを加えて論を展開している。悲観論と楽観論で分ければ、明らかにフラーは楽観論者である。発展途上国の人口爆発が地球全体の沈没につながると危惧するネオマルサス主義者たちとは違い、フラーは適切でバランスのとれた消費と成長がなされれば世界中が救われると考えているからだ。フラーは大きなスケールでの配分的正義を信じている。「私たちが原子炉からのエネルギーにもっぱら頼り、自分たちの宇宙船の本体や装備を燃やしてしまう愚さえ犯さなければ、『宇宙船地球号』に乗った全人間の乗客が、お互い干渉し合うこともなく、他人を犠牲にしてだれかが利益を得たりすることもなく、この船全体を満喫することは十分実現可能なことだとわかっている」(『宇宙船地球号操縦マニュアル』、以下同じ)と述べているのだ。フラーが見ている問題点は専門化の進行である。

 本来、「自然が人間に求めたのは、全包囲とはいかないまでも、幅広い適応性だった。だからこそ、自然調整用のスイッチボートたる頭のほかに、心というものを人間を与えたのだ」とフラーは続ける。歴史的に見て人間の適応能力と発明とが人間を地球上に広く拡散させた。一歩進んで、生物界を見ても、ある時代に特化した存在が、次なる環境変化に適応できずに滅びることが分かっている。最近では、これが遺伝子の画一性につながっているものとして危惧されるものであるが、多様な遺伝子の可能性を持った出発時点での生命体ならば、環境への適応も容易である。

 人間も拡散段階では多様であった。それは遺伝子というよりも、様々な土地の自然に適応するという意味で多様であった。そうした拡散の中、海賊が登場する。この海賊が専門化の発生につながっていくとフラーは考えている。ここでいう海賊とは、漫画「ワンピース」や映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」に登場するようなものたちに限定されない。大航海時代以来の船乗りたちのことで、代表的なものが英国が作った東インド会社である。世界のトップの大海賊は国王と組んで王立師範学校を創設した。そこで特殊な技術を修得し、地位と引き替えに学生は奴隷状態を受け入れる。「専門分化とは事実上、奴隷状態の少々おしゃれな変形にすぎない」とフラーは手厳しい。

 世界は「大海賊」の支配下に置かれ、それは1929年の世界恐慌まで続いたとされる。転換点は第一次世界大戦で、これを契機に大海賊は絶滅したとされるが、社会は、当時も今も、ほとんどは専門分化した奴隷たちによって構成されていることには変わりないのだ。大海賊が作り上げた国際貿易収支決算も通貨レートも経済勘定も規制も価値体系も用語も概念も存続したからである。

 環境思想家は、自然の姿を社会に投影して、現在の危機を類推するが、フラーも例外ではない。専門化がこうした海賊時代の秩序を維持させたのだが、「過度に専門分化した生物は、一般的な適応能力がないため死んでしまう」ことが指摘される。世界も海賊支配という特殊な形態に合わせて枠組みは出来上がっている。

 世界の資源は、分捕り合戦にあっている。その中で、根本に枯渇に向かって進む消耗という考えが生まれ、資源は希少なものとされ、科学の専門化が核兵器を生んだ。こうした海賊的な倫理の中、エネルギー機関は、エネルギーを失い続けて停止するというエントロピーの発想、食糧を食いつぶす人口増加というマルサスの思想、適者生存というダーウィンの概念が登場した。ここに、物を生産する者こそが適者であるというマルクス主義が加わる

 フラーが好んで使う「宇宙船地球号」の比喩は、通常は閉鎖経済の発想につながるものであるが、フラーは限られた資源に対する人口の問題を取り上げたマルサスや、エントロピーの法則に批判的である。これは一見すると奇妙なことであるが、フラーによればエントロピーの法則は消耗という誤解にもとづく考え方ということになる。なぜなら、地球は、太陽やそのほかの宇宙放射から絶えず燃料補給を受けているからだ。これはコモナーなどにもみられる楽観論である。つまり自然の潜在力の過大評価である。ただ、その自然の潜在力を太陽に求め、その利用を未来への方向性にしていることが、フラーを特徴づけている。

 科学によって明らかとなったのは、権力の垣根がすべて取り払われさえすれば、資源はすべての人間に十分あることであるとフラーは考える。だから権力者に奉仕するのではなく、地球全体のエネルギー・食糧・住居に関する問題解決に力を注がなければならない。物理学・化学によって、より少ないものでより多くのことをなすことが可能となったからこそ資源も十分豊富にあるようになったのだ。