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 環境問題の拡大と悪化に伴い、科学と並んでやり玉に挙がるのが、資本主義の原理、市場調整力に基づく自由競争である。野放しの経済競争こそが、人々の物欲に訴えて消費を無限に拡大し、自然を浪費していくという理論が成り立つからである。対して社会主義はどうか。至って評判は良かったようである。キャロリン・マーチャントは『ラディカルエコロジー』の中で、旧ソ連ではアメリカ合衆国に見られるようなごみの山がなかったことを述べているが、ディープエコロジストのアルネ・ネスなども、管理された計画経済の方が、環境問題には対処しやすいということを示唆している。

 中学生の頃に使っていた社会の教科書にも、ソ連は社会主義だから公害がないと書かれていたように記憶している。その教科書は、中国の文化大革命を絶賛し、北朝鮮は平和的統一を願っているような印象を与える記述があり、読み返せば、まさにぶっ飛ぶ内容であった。現在、この執筆者たちは何をしているのだろうかと想像してしまう。

 実際は社会主義世界もひどかった。いみじくもセオドア・ローザックが、「市場経済は環境を破壊的に扱ってきた。しかし、いまとなっては、社会主義経済がそれ以上にひどい前歴をもっていることが判明した。ドナウ川からベーリング海に至る大地の荒廃が、グラスノスチのおかげで明らかになった。私たちが知る限り、その荒廃を公然と批判した者はいない。そんな事態になっていることすら知る人は少なかった」(セオドア・ローザック『地球が語る』)と述べたように、資本主義の自由世界の方が、開かれていたから環境問題が明るみに出ていただけであった。旧ソ連での環境破壊が象徴するように、方向性が間違っていれば、自由競争社会と結果は同じというか、かえって社会主義の方が悪さをすることもある。

 とはいえ、確かに資本主義の市場調整力に任せていれば、人々が物質的欲求を満たすべく環境破壊を始め、企業がその欲求を加速させようと努力し、新たな需要を作ろうとするから状況悪化は止めようがなくなるように見える。ソーシャルエコロジー(エコアナキズム)の理論家マレイ・ブクチンなどは、資本主義こそが史上最悪の社会秩序であり、それ以前の悪徳をすべて美徳とした存在であると考えている。

 こうした形での資本主義批判は伝統的に語られていたことで、既に100年以上も前に、産業革命期に工業化による環境悪化を目の当たりにしたフリードリッヒ・エンゲルスが、キューバで山腹を焼き払い、一本のコーヒの木の肥料をとり、土壌を破壊することによって自然の報復を受けることを『自然の弁証法』の中で述べている。

 エンゲルスや、アナキストのブクチンが資本主義を批判するのは当然として、批判はブクチンと対立するディープエコロジストのネスなどからも出ているし、多様なエコロジストが異口同音に資本主義批判を展開している。

 例えば、やはりディープエコロジストと見られるエドワード・ゴールドスミスは「企業の仕事のやり方は人工的な欠乏を創り出すことが含まれていて、企業がはじめにやることはと言えば、自分が開発した商品のために以前には存在していなかった市場を創り出すことであり、次にやることはこうした商品を『計画的廃れ』と一般的に言われている状態にひき込むことである。しかしながら、形式的経済の発展に先行すること数千年の間に、人間の必要を満たすために獲得されてきた食料や人造物は必ずしも供給不足であったわけではない」(エドワード・ゴールドスミス『エコロジーの道』)と述べている。これは19世紀英国のマルキシストであるウィリアム・モリスが、著書『無可有郷通信(ユートピア便り)』の中で、ハモンド老人に語らせている資本主義批判とうり二つである。

 また、同じくディープエコロジストとみられるフリッチョプ・カプラも、「巨大市場に侵犯されている」のに「市場取引の参加者全員に対する完全で自由な情報、市場における個々の買い手と売り手は小規模で価格への影響力はないという確信、そして労働者、天然資源、機械類の全面的かつ即時的な代替可能性が含まれている」という前提で「競争ミデル」を打ち出していることから、市場調整力の理論そのものに誤りがあるとみなしている(フリッチョプ・カプラ『新ターニング・ポイント』)。

 定常状態の経済を提唱するハーマン・ディリーも、「19世紀半ばから、経済学者が成長のパラダイムを受け入れてきた」ことを指摘し、経済成長の追求に専念することに「成長マニア」とか「超成長マニア」と名付けている。

 こうした資本主義批判に対して、楽観論で対峙しているのがハーマン・カーンである。カーンは、自由市場政策がもたらす経済成長が社会を進化させるが、その社会進化はテクノロジー進化であると主張している。米国科学促進協会のフィリップ・エイベルソンも時間とエネルギー供給があれば原材料の希少性への対処は可能だとしていたが、カーンはエイベルソンよりも、さらに楽観的であるとされる。エイベルソンは資源対策には数十年が必要だと述べたのだが、カーンは地殻の7%がアルミナであることを指摘し、経済成長が現行の形で加速することが可能だとしているからである。

 カーンの視点では、環境問題は存在していても、じきに科学技術が解決するはずであり、そのためには科学技術の発達を加速させるための経済発達が必要だということになる。この経済発達をもたらすのが自由市場政策ということになる。英国の環境思想研究家ディヴィッド・ペパアーは、アダム・スミス、ジェヴァンズ、マルサスらの価値主観的選好に、カーンら科学・市場万能主義との類似性を見ている。しかし、実際はアダム・スミスなども自然環境破壊への危惧を抱いており、『国富論』の中では、会社(商業主義)がくずの木を全滅させモルッカ群島の人口を減少させたこととを批判しているのだから、自然破壊と市場調整力とは、少なくともスミスの思想においては、切り離してもよいのではないかと思われるのだが。

 カーンが楽観論を述べてから数十年、さすがにここまでの楽観論は、現在はあまり存在していない。環境問題は解決するどころか、年々悪化しているから、自由放任にしておけばさらに状況はひどいものになると思われるからである。市場調整力は、やはり環境問題解決には向いていないのだろうか。環境問題の悲観性を意識した場合、市場調整力には期待できるものがあるのだろうか。

 そもそも市場調整力を示す「神の見えざる手」という言葉は、スミスの『国富論』に登場する言葉である。需要と供給が、市場調整力によって自然と一致することを意味している。環境思想は、過去に存在していた様々な思想を利用していることが多いが、この市場調整力の考え方を利用した環境思想もある。

 それが、ジョン・エルキントン、トム・バーク、ジュリア・ヘイルズといった識者が主張する「法人環境保護主義」と呼ばれるものである。法人環境主義とは、法人の利益は安定した資源基盤にかかっている以上、法人の存続も結局は健全な環境次第であるとするものである。エルキントンもバークも、環境に良くない活動は、経済的にも良くないという前提にたっており、ソロー、ハモンド、マーシュといった初期の原野主義者達が、原野の保護が人間の経済活動にも有利であるとした思想に類似している。エルキントンは環境税も支持している。同時に、エルキントンとバークの思想は、科学技術利用という、環境テクノロジー的側面もある。

 資源保護が守勢に立つ消極的防衛策とするなら、環境テクノロジーはより積極的な立場に立っている。存在している資源を節約しようというのではなく、技術的に自然を守っていこうというものである。いわゆるテクノフィックス的解決方法と呼ばれるものがこれに当たる。例えば公害除去技術などは、自然環境を守ること自体が、一つの商品として成り立つものである。

 資本主義こそが環境問題の根源だとする社会派エコロジストに対して、エルキントンやバークは新しいタイプの資本主義を期待している。新しい資本主義とは「緑の資本主義」であり、生まれていない未来の世代に対しても責任を持っている「環境企業家」に率いられる。環境に配慮した資本主義では、消費者の行動も環境に配慮した商品を好む「グリーンコンシューマリズム」となっている。

 消費者の選択を信頼することから、エルキントンは遺伝子操作食品の表示が必要であると言っている。農薬の過剰使用野菜や薬物使用の家畜なども表示義務化されることによって減少できる。こうした考え方は、自由市場経済と環境テクノロジーの調和した姿ともいえる。もっとも、グリーンコンシューマリズムについては、サンディー・アーヴィンのように消費を前提にした環境配慮商品の選択ではなく、消費そのものを減らすべきだという批判も出ている。エルキントンも『わたしたちが望む未来』では、節約に関する記述をだいぶ載せている。

 もちろん、エルキントンやヘイルズも消費者選考だけですべてが解決できるとは考えていない。安全で健全な世界を求める「2000年市民」の行動計画として「1 本当に大切なことを考える。2 知的な生活を選択する。3 考えるだけでなく行動してみる。4 積極的にピープルパワーを活用する。5 知る権利のために闘う。6 広い視野をもつ。7 予期せぬ出来事を想像してみる。8 ギブ・アンド・テイクを実践する。9 幸せはお金で買えないことを知る。10 生命の世界を尊重する」(ジョン・エルキントン/ジュリア・ヘイルス『わたしたちが望む未来ー地球環境時代の豊かさ』)が挙げられている。

 そこでは、地域コミュニティの重要性、行政による家族生活支援も述べてられいる。日常生活の改善は環境問題解決に大いに有効なものとされ、様々な施策が列挙されている。自家製有機栽培を奨励し、家庭での省エネルギーやリサイクルの工夫、公共交通期間の充実、自動車を慎重に使用することなど、きりがないほど多くのアイデアが述べられている。

 興味深いのはコンピュータ使用の促進なども述べられていることで、一部のエコロジストの技術への警戒と懐疑とは対照的である。また、発展途上国の自助努力への支援も述べられており、この点でネオマルサス主義の悲観論とも無縁のようにみえる。しかし、エルキントンらの提案はすべて現状の社会の延長上にあり、指標としてのGNPに疑問を持っても根本から経済の意味を問いなおすというよりも、節約の必要が示唆される程度である。生物実験についても、動物解放的な指摘ではなく、実験内容の危険性が指摘されている。しかし、環境思想関係の本の中で、最も多くの現実的提案をしているのが、こうした法人環境保護主義者の著書類である。

 では、なぜ資本主義批判者と、エルキントンらの資本主義、市場調整力への信奉とは、かくも大きな食い違いを見せているのか。実は、環境問題の根本が、システムそのものよりも奥深い問題と考えられているからである。人々の価値観こそが根本にあるものとみなしているから、価値観の変更さえあれば市場調整力が環境保護の方向に進むと考えているのだ。つまり市場調整はシステムだから、それが環境保護にうまく働くかどうかは、人々の意識次第ということになるというわけである。これは、ある意味で思想というものが、なぜ環境問題にとって重要なのかを示すものでもある。

 結局、ネスなどが社会主義の計画経済が望ましいなどとみなすのも、一般的価値観が変わらない以上は、中枢からの指令によって全体を整備する方がいいということにすぎない。ディープエコロジーの根幹に位置する主張の一つ、感性の変化により環境問題を解決するという視点でみれば、市場調整力も計画経済も大差ない、というよりも市場調整力の方が加速して環境問題を解決させるはずなのである。人々の意識の中で、自然環境が価値として認められれば、市場調整力により加速するから一気に生活や経済の変化が進むからである。従って、管理体制以上に大事なのは、価値観として自然環境が認められるかどうかである。もし、消費者の環境問題への意識が高まれば、消費者の意向を受けて、環境に配慮されない商品は駆逐されていくことになる。そして、環境問題解決に向けたアイデアは無限に出てくることになる。あとは正しい情報を与えるだけとなるのだ。

海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。現在,国士舘大学経済学部非常勤講師。著書に「新・環境思想論」(荒地出版社)、「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(NTT出版)など。