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クローズドなシステムが、支持される理由

 フェイスブックを見てみよう。

 そこは無料だがクローズドなシステムとして始まった。入会するためには、登録だけでは足りず、利用可能な電子メールアドレスが必要とされた(最初はハーバード大学の学生に限定していて、のちに他の大学にも門戸を開いた)。

 フェイスブックのサーバーをグーグルに検索させることは認めなかった。2006年に一般開放したときには、すでに会員制クラブのようで、儀礼を重んじ、あれこれと制限の多い組織になっていた。そして、フェイスブックの魅力は、まさにそのクローズドなシステムにあったのだ。

 その情報と人間関係の体系は、驚くほど短期間のうちに、ウェブよりも単純かつ、習慣性の高いサイトとして、ウェブからの避難場所になっていった。フェイスブックは開発業者を招き、専用のゲームやアプリを作らせ、サイトを完全なプラットフォームに変えた。

 そして、会員数だけでなく、利用時間や習慣性、忠誠度が臨界点に達したときに、フェイスブックはウェブに並行する世界になったのだった。そこでの体験はウェブのそれと大きく違い、より魅力的で充実していたので、人々はそれまでダラダラとネットサーフィンをしていた時間をフェイスブックで費やすようになった。

 重要なのは、創業者のマーク・ザッカーバーグが帝国を築く明確なビジョンを持っていたことだ。そのビジョンには、フェイスブックというプラットフォームの上に開発業者がアプリを作り、アプリは常にプラットフォームに従属することがあった。それは権力の根本的な移転と言えるだけでなく、権力の特別な集中だった。

 無数の起業家からなるウェブが、1人の大物起業家のビジョンに支配されるのだ。そこにはウェブにはない冷酷な模範があった。すなわち、厳格な基準とすぐれたデザインと集中管理だ。

(中略)

 テクノロジーの側において、ウェブを成熟したメディアにしようという決意がなかったのは、メディアを知る者がいなかったからだった。同じように、メディアの側でもテクノロジーに詳しい者がいなかった。

 これは根本的でやっかいな断絶だった。コンテンツとシステムの壮大な統合はなかったし、経験と機能も統合されなかった。繊細で賢い策謀家もいないので、ユーザーと製作者、広告主の共依存関係を築くような全体のデザインも作れなかった。