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 そうした複合は、『播磨風土記』に出てくる「稲種きき」の記述からも分かる。この行事は、照葉樹林文化に見られる、狩りの獲物の多寡で焼き畑の豊作を占う儀式的狩猟が、水田稲作と複合し、鹿や猪を生け贄の犠牲にして、その血で稲の豊作を祈ったのではないかと推測できるのだ。縄文水田が発見された唐津市の菜畑遺跡では、弥生時代初期の地層から、猪の下顎骨と彩文土器と漆器がセツトになって発見されている。そして、水田稲作儀式の中に、狩りの獲物をささげるという儀礼はなくなったものの、柳田国男が指摘した、春に「山の神」が里に降りて「田の神」になり、秋にまた山に帰っていくという「田ノ神去来」信仰は、儀礼的狩猟で、狩りの獲物が「山の神」にささげられたことの名残として、稲作と「山の神」信仰との複合だとしている。こうした「山の神」信仰は、同じ水田稲作文化といっても、東南アジアには見られないもので、照葉樹林文化の要素を、稲作文化が受容して創造した文化的特色である。

 こうした積み重なっていくという特徴は、様々な領域に見られる現象である。どの民族にとっても言語は、民族の命にも等しい価値を有する。それは日本人にとっても同じなのであるが、日本語も形成過程が複合的であったようだ。1万2000~1万3000年前頃の縄文語は、東北アジアのナラ林帯に現在も広く残っている古アジア語の祖型に近い原始的なアルタイ語的特徴を持っていたとされる「原東北アジア語」とでもいうべきものであったらしいが、さらに縄文前期~中期ごろに照葉樹林文化が西日本に進出してきて、南方的なオストロネシア系の言語やチベット・ビルマ系の言語が伝来し混合することになったようである。その上、縄文末期に寒冷適応した新モンゴロイドが渡来し、現在のツングース・満州語に近いアルタイ系の言語が伝来した。同時に、長江下流域や江南地方からは呉・越系の言語も伝来し、混合語としての日本語の根幹が形成された。最後に4~5世紀の古墳時代に朝鮮半島を経由してアルタイ系の言語や中国語(漢語)が導入され上代日本語が形成されたというのである。良いと思えるものを即時吸収して、それ以前のものに積み重ねていく。

 縄文文化が日常に色濃く残る中、新たに流入してきた外来文化である弥生文化の特徴は、非日常的な文化要素が強かったことにあるようだ。特に重要な要素が、水田稲作を巡る諸要素、稲の祭りを含む各種の祭儀の体系と、それを支える新しい宗教観や世界観、政治的・宗教的統合のシンボルとなる青銅製祭器や呪具類と、その背後にある社会的統合のイデオロギーとみなされている。こうして、縄文末期~弥生期には、水田耕作や金属器とともに「鏡と剣」に象徴されるような社会的・政治的統合原理、新たなる世界観や信仰が入ってきたのだが、それだけでなくツングース・満州系の言語や、長身・高顔の北アジア系の人も流入したと佐々木高明氏は推察している。つまり日本人そのものも、積み重なりながら形成されてきたというわけで、そのためにDNA構造が多様性に富み、朝鮮半島などを経由せずとも江南から渡来した人々もいる可能性が高いし、最近の調査で、バイカル湖近くの少数民族にかなりの共通遺伝子がみられることも分かってきた。

 良いと思えるものを即時吸収して、それ以前のものに積み重ねていく。日本の神話が意味するのも、地方神を神々の体系の中に組み込み、位置付けるという複合的な形成である。後に仏教が入ってきて崇仏論争があったものの、結局は神道と仏教の融合という帰結を迎えた。こうした同化力の基盤が、日本の原点・縄文時代に形成され、その後の日本文化の特徴として、様々な文化を吸収しては日本化してきたのである。それは、過去の否定でも、新規の排除でもない。多様な価値を内部に並列させながら、混沌としてまとまった不思議な世界である。だからこそ、一神教的な激烈な宗教戦争もほとんどなく、厳格な一神教であるキリスト教さえ飲み込んで、神々の中に入れてしまう力強さをもっているのである。そして、そうした文化、多層的な構造をもち、多様性を享受し、自然環境に適応するといった特質の文化から、環境思想が生まれれば、排他的ではない、多様性を真に認めるようなものになるのではないか。そう期待してしまうのである。

海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。現在,国士舘大学経済学部非常勤講師。著書に「新・環境思想論」(荒地出版社)、「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(NTT出版)など。