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 「環境思想」とは新しい言葉である。と言うと異論もあるだろう。老子やプラトンも環境思想的な要素を持っているからである。釈尊やキリスト、アリストテレスなどもエコロジー的要素があったとして取り上げられることがある。こうした環境思想的要素を示して、最初の環境思想家が誰であったかを考えれば、解釈によって様々な候補者が挙げられるだろう。古代から始まって、あらゆる時代に環境破壊への指摘をした人や、自然賛美は多々見られているからである。「環境」は、人間の登場によって規定された概念である。禅問答のようだが、人間がいるから「環境」が生まれ、「環境」があるから「環境問題」が起こってきたわけで、人間が環境問題を意識すれば環境思想的な要素は、いつの時代にもあり得たわけである。

 しかし、過去登場した多くの思想家にとって、環境思想的要素は、その思想家の全体系の一部にすぎなかった。本格的な環境思想は、本格的な環境問題の発生から開始されるもので、広範な汚染を生み出した英国産業革命が契機になっている。ここから、多くの人に環境問題の存在が認知されたのだ。そしてレイチェル・カーソンの『沈黙の春』出版以降、「環境問題」解決が主軸になった思想、“現代環境思想”が登場してきたのである。

 発生の起源が英国産業革命なので、現代環境思想は、大なり小なり産業革命批判の側面を持っている。それは、そのまま福島第一原子力発電所の事故への批判となり得るものもある。福島原発事故への対応について、様々な批判が出ているのは知っている。前々から原発が危険であると言っていた人たちは「核燃料でも原子炉でも核廃棄物でも、極めて危険な存在であることを絶えず強調していた」と言うだろう(一方で、計画停電実施によって「原発がなくても電気は十分ある」という意見も否定されてしまっているのだが)。チェルノブィリ原発事故が起きたとき、原発事故の悲惨さは分かっていたはずだという指摘も出るだろう。もちろん、チェルノブィリ原発事故の教訓が生かされていたにもかかわらず、地震・津波が「想定外」だったという事実もある。想定外に備えるのが危機管理だという意見も聞くが、万全な体制をどの基準にするかは難しいところだ。福島原発事故の、初期における政府の対応や、電力会社の隠蔽体質を指摘する人もいるが、事故が起きてからでは、どんな対応をしても「焼け石に水」のような気もする。

 しかし、環境思想的に福島原発事故を眺めれば、それは単に原子力利用という次元の問題ではない。より根本的な問題から進んできた存在の、現時点での現実化ということになる。産業革命によって確立されたシステムが作り出したもの、異口同音に環境思想家たちが批判してきたもの、代替案を提示してきたもののアンチテーゼが、端的に示されているように思えるからである。