PR

 環境思想の具体化した姿は、各思想家によって異なるイメージだろうが、比較的多くの意見として「反グローバリズム」「自立した地域」といった形態が示されるように思える。すべてではないが、環境思想が自然界に範を求めようとするとき、エコシステム型秩序が考えられることがあるが、エコシステムでは個々が自律しながら、相互依存状態にあるからだ。環境コミュラティーを考えていたシューマッハはもちろんのこと、多様性を政治体制なまで求める生命地域主義のカークパトリック・セルも、政治的には直接民主制しか認めないものの多様な自然に合わせた小規模共同体を考えているソーシャル・エコロジーのマレイ・ブクチンも、力点に差はあるが、基本的な態度は大同小異で、地域自然とマッチした自律した小規模共同体を考えている。

 エコロジストによって、批判されることが多いデカルト型の時計システムは、個々すべてを部品として扱い、しかも部品一つが欠けると全体が機能しなくなる社会をイメージさせる。国だけでなく、国際分業も世界を時計化するものである。対して、個々が部品でない状態で存在し、全体が多様性、複雑性、統一性を兼ね備えたシステムを人間社会に求めようとするとき、各生命の自律を小規模な地域の自律に重ね合わせ、そこでの完結したエネルギーフローが考えられるようになるのは当然かもしれない。さらに、自律は民族的自立を、多様性が文化的多様性という考えを導き出すことにもつながるだろう。

 9・11事件が世界に示したイスラム原理主義も、一見すると民族的自立と文化的多様性を想起させるものがあった。あたかも米国グローバリズム対イスラム民族主義であるかのように。米国型価値観と、それに基づく秩序への反発を、文化的に行っているように見えたからである。しかし、米国とアルカイダの対立は、一方的な力差から、グローバリズム対文化・民族自立に見えただけであった。ロシア革命前のロシア帝国政府と反体制テロリズムの戦いが、革命成功後に別種の強権政治と共産主義グローバリズムを生み出したように、仮にアルカイダが勝利したとすれば新たなる一元価値支配のグローバリズムが登場した可能性が高い。戦争型対応の米国と、アルカイダ型テロリズムの対立は、非対称戦争として、「文明」対「文化」のように見えていただけにすぎない。実態は二つのグローバリズムの主導権対立であった。9・11事件後に、米国防総省が発表したビデオ映像でビンラディンが述べていたのは、「相手が『アラー以外に神はなし』というまで戦うよう命じられた」というせりふであったからだ。世界のイスラム化こそが、究極の目的であることが表明されていたのである。

 冷戦時代に、米ソ両国は、各々のイデオロギーを世界共通のものとしてごり押していた。世界全体が米国型民主主義国によって構成された社会となるのか、マルキシズム的共産主義に統一されるのか、いずれもグローバリズムの美名のもと、世界の価値観を画一化しようとしていたのある。ビンラディンの言葉は、イスラムによる世界秩序を彷彿させた。グローバリズムという画一的価値観の強制に対するアンチテーゼは、エコロジーの価値、つまり多様性を価値とみなす自律した民族・文化の連合した世界である。米国型秩序が、現代文明の一形態として価値観とシステムを押しつけようとするのに対し、地域的・文化的な抵抗を行うというのが反グローバリズムの動きのはずであった。

 ところが、ビンラディンの求めるものは、グローバリズムのアンチテーゼではなく、実際は別種のグローバリズムにすぎなかった。グローバリズムを否定するのではなく、従来のグローバリズムにのみ反対しているだけの存在であったのである。米国民主主義やマルキシズムと同様に、自らを絶対的正義とみなし、排他的に異文化を認めないという姿勢は、ある意味で米ソよりも多様性を否定する思想を体現していた。それは新たなグローバリズムのモデルであり、排他性と独善性ということで世界各地の文化の敵となりうる存在である。しかし、このような、本質的に従来の米ソと変わらない、というよりも外見はグローバリズムと一元的価値観の悪い側面を強化したような存在が、米国の対応の誤りから、広くイスラム圏に広がってしまったのだ。

 米国は、その伝統からも干渉戦争と予防戦争を肯定する、世界でもまれな国である。9・11後、米国は干渉戦争を多発させる。9・11前の米国は、米ソ冷戦終結、社会主義崩壊、湾岸戦争と続く流れの中で、新しい世界秩序は国連型秩序ではないか、いや米国型秩序ではないかと楽観的平和論に浮かれていた。この楽観論は、世界貿易センタービルの倒壊とともに、一瞬にして沈静化したのである。干渉戦争・予防戦争が多発しだしたのだ。

 干渉戦争を引き起こした十分条件は、恐怖と石油利権であった。新しい敵・テロリストはやっかいであった。敵の姿が明確な形で見える戦争と異なり、テロの最大の恐怖は姿が見えず、従って「いつ、どこで、誰が、誰によって殺されるか」が分からないことであった。敵が明確ならば、戦争を仕掛けて潰せばいい。ところが冷戦終了後10年近くたって新たに浮上した敵は、どこにいるのか分からないテロリストであった。英国やロシアのようにテロとの戦いを歴史の中に持っている国々に比べて、米国民は精神的にテロへの恐怖に弱いように見える。そして姿の見えない敵に対する安全保障が求められるようになってくる。