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 2009年に生まれ故郷の神戸に帰ってくるまでの43年間、私はシリコンバレーで、米国社会の一員として生活しました。今回、スティーブ・ブランク氏のブログを日本語化し、日経BP社のITproでご紹介できることに大変感慨深い思いを抱いています。

 私は1959年に日本の大学を卒業と同時に日本IBMの営業部門に入社し、コンピュータに出会って、その膨大な将来性を感じました。1963年にIBMを辞めると、 子供時代からの夢であった海外渡航の実現とコンピュータ技術の習得のため、アメリカの大学に私費留学しました。大学で3年間学び、グリーン・カードを取得し、シリコンバレーの一角であるサンノゼのIBMのシステム開発部門にSystem/360のソフトウエア開発要員として就職したのです。

 1971年には、IBMからのスピンアウト企業である、IBM互換システム開発のアムダールに入社し、当時、資本/共同開発/製造委託と密接な関係のあった富士通との、渉外担当マネージャーになりました。渡航を決意した時からの私の念願だった「日本とアメリカの架け橋」の仕事を始めることになったのです。1976年、 当時IBM互換の磁気ディスク装置を製造販売していたメモレックスに、日本渉外マネージャーとして転職、1981年に独立して、シリコンバレーのスタートアップ企業と、日本の企業との間で事業提携、投資/販売/技術ライセンス/OEM製造などを促進するコンサルタント業を始めました。これは、まさに私の「天職」でした。

 1990年代の初め、画像処理用のワークステーションを開発・販売していたシリコングラフィックス(SGI)の創業者ジム・クラーク氏は、タイムワーナーと共同でビデオオンデマンド・システムを開発していました。私はクラーク氏から、そのシステムのセットトップボックスを、次世代ゲーム機として任天堂に紹介したいとの依頼を受けました。その結果SGIがニンテンドー64の開発と製造をすることにつながりました。

 クラーク氏は1994年、ネットスケープ・コミュニケーションズを、当時21歳のマーク・アンドリーセン氏と、彼の学生仲間の5名とで 創業しました。 クラーク氏から電話があり、この新規企業の日本での立ち上げと、資金集めをしないかという誘いがありました。これが私にとって、仕事人生で最もエキサイティングなプロジェクトの始まりでした。ネットスケープは、「インターネット時代」を世の中にもたらしたと言っても過言ではない、革新的な企業でした。同社の創業当日、当時富士通でインターネット・プロジェクトを担当されており、既にアンドリーセン氏とイリノイ大学でコンタクトがあった、菊田和代女史からメールが入りました。その次に連絡があったのは、当時アスキーの社長だった西和彦氏です。ネットスケープを訪問した後、「アンドリーセン氏は輝いている、素晴らしい」とのコメントでした。3人目は、ソフトバンクの孫正義社長でした。西氏と孫氏の「卓越した臭覚」には驚かされました。私はストックオプションを供与されていたので、シリコンバレーに多数いる、一夜百万長者の一人になりました。振り返って考えると、一夜百万長者ではなく、それまでの長い積み重ねと、数々のプロジェクトで多くの人脈を培った結果だったのだと思います。

 当時学生だったアンドリーセン氏は、現在はシリコンバレーで、一番注目されているベンチャーキャピタルであるアンドリーセン・ホロビッツを立ち上げています。最近マイクロソフトが買収したスカイプの投資家でもあり、フェイスブックやツイッターにも投資をしており、アドバイザーもしています。

 彼は1999年に、クラウドコンピューティングを最初に事業化したラウドクラウドを創業し、その会社がクラウドコンピューティング用ソフト開発のオプスウエアに変身し、2007年にヒューレット・パッカード(HP)が16億ドル(1280億円)で買収したため、アンドリーセン氏は今では、HPの社外取締役にもなっています。