PR

 ブランク氏によれば、アップルは1920年代のゼネラル・モーターズ(GM)の商品開発と販売手法を研究し、iPhoneの戦略に取り入れたのだという。21世紀の偉大な発明品であるiPhoneが、20世紀最大の発明品とも言われる自動車に学んだこととは何か。今回の投稿はその前編。(ITpro)

 それは、その時代において最も斬新なコンシューマ向け製品でした。その産業は、広範囲にわたる様々な都市の革新者たちによって始まりました。しかし、20年も経たないうちに、アントレプレナー的なスタートアップ企業が集まる、一つの地域に集約されました。当初は職人的な仕事で成り立つ事業でしたが、その後は絶え間ない技術革新によって大量生産による製造工程の効率化が進み、価格競争にさらされることになりました。そしてついに市場が飽和した時、その産業は自分たちが生き残る道を再び考案しました。ある企業が、コモディティー化された商品を「ニーズ」に転換する方法を考え出したのです。

 その企業は、米国全土に販売店を展開し、「何としてでも手に入れたい」と思わせる最新モデルに消費者を群がらせ、何の問題もない昨年の製品から、新製品に乗り換えさせる方法を考え出しました。

 この企業はアップルではなく、新製品はiPhoneでもありません。それは、ゼネラル・モーターズであり、自動車産業のことでした。

手工業的な産業だった黎明期

 20世紀の初頭、自動車産業はまだ手工業的産業でした。外部の企業から集めた部品を、熟練工たちと一般工員が組み立てていました。自動車は非常に高価で利益が大きく、非独占的つまり複数社の自動車を売る販売店において現金取引で販売されていました。しかし、1901年にランサム・オールズ氏が組み立てラインの基本的概念を考え出し、その後の10年間にヘンリー・パッカード氏、ヘンリー・リーランド氏、ヘンリー・フォード氏らがそれに追随、 デトロイトに大規模生産工場を設立しました。

 デトロイト一帯は極めて短期間に、自動車および自動車部品の製造、熟練した機械工の街になりました。1913年、フォードがベルトコンベア方式の動く組み立てラインと他の車種にも転用できる標準化された部品を採用したことによって、デトロイトは20世紀の自動車製造の中心地として揺るぎない場所になりました。

機能戦争の時代に突入

 自動車産業は、ヘンリー・フォード氏、ジェームス・パッカード氏、チャールス・ケトリング氏、ヘンリー・リーランド氏、ドッジ兄弟、ランサム・オールズ氏といった、技術者によって興され、運営されました 。20世紀最初の25年間は、自動組み立てライン、鉄鋼の筐体、速乾性の塗料、電気起動システムなど、まばゆいばかりの技術革新に彩られました。技術者は、まず一部のエリートに“問題解決型”のような交通手段を作り、そして、フォードが新しく作り出した概念である、一般大衆のための交通手段を作っていったのです。

市場の飽和に直面

 フォードは、終わりのない機能戦争を回避するため、低コスト型メーカーになることを試みました。フォードのリバー・ルージュ工場は、1マイル×1.5マイル(およそ1600メートル×2400メートル)の工場敷地に93の建物が立ち並び、10万人の作業員が働き、全行程が一貫して行われる、大量生産には最適な施設でした。

 1923年には、それまでの度重なる工程の改良に基づいた、大規模生産による経済効果による製造コストの低減によって、フォードはモデルTの価格を290ドルに下げることができました。

 1920年代の初頭には100社近くの自動車メーカーがありましたが、激しいコスト競争にさらされ、大量生産するための資金がないほとんどの企業が廃業しました。そのころ、世界の自動車の半数がフォードの車となりました。さらに事態を悪化させたのは、フォード車とGM車の“寿命”が長いことでした。フォードのModel Tの平均乗用年数は8年で、その他の車種も6年くらいだったため、新車の販売が滞ることになったのです。わずか20年間で、自動車を所有する米国の世帯比率は0%から80%に急上昇し、自動車市場は飽和状態になりつつありました。既に自動車を保有している人に、車を売る時代となったのです。

“クレイジー”なアントレプレナーが登場

 馬車の最大の製造業者として成功したビリー・デュランテ氏は、自動車産業の将来を見込んでこの業界に参入しました。

 彼は技術者ではなくアントレプレナーであり、技術者が経営する自動車メーカーの買収に優れた目を持っていました。彼は数社の自動車メーカーを1社に統合すれば、それぞれが独立して運営されるよりも成長するという、鋭い洞察力を持っていました。

 ところが彼はほとんどの創業者のように、ビジネスモデルを探す能力は優れていましたが、大会社を運営する能力は最低でした。取締役会が彼をクビにした時、彼は競合企業のシボレーを買収し、彼が以前いた企業よりもシボレーを大きくし、同社の株で彼が以前いた会社であるGMを買収して取締役を追い出したのです。しかし2~3年後には、卓越した才能はあったものの無鉄砲な彼の経営によって、GMは財政破綻の瀬戸際になり、新しい取締役会は彼を再びクビにしました。結局、彼はボウリング場の支配人として無一文で亡くなりました。

 デュランテ氏の後任となった、会計士のアルフレッド・スローン氏は、GMを米国の一流企業、最も尊敬されている企業へと再建しました。

スローン氏の絶え間ない取り組み

 着任後の10年間で、スローン氏はその後半世紀も継続されることになる、数々の改革を取り入れました。そして売り上げがフォードの4分の1しかなく、業界第2位だったGMをトップに押し上げ、その後100年にわたって自動車業界に君臨しました。彼が採用したのは、以下のようなことでした。

1)分散経理方式
 フォードと異なり、GMは独立していた数社を統合した企業でした。分散経理方式を採ることで、元は別々だった企業を製品事業部門に転換、各製品事業部門がフォードのような大量生産方式に注力することを可能にしました。

 しかしスローン氏はそれに満足せず、分散された製品事業部門を、総括的にとらえる経理方式を考案しました。GMのCFOは、製品事業部門における販売報告の標準化と柔軟性のある経理方式を設定し、一定の規則に従って各製品事業部門に必要なリソース(資金、人員など)と報酬を割り振りました。その結果、GMの内部の運営や、販売店と部品納入業者の運営は、情を挟む余地がないほど効率的になりました。そして、製品事業部門長はGM全社の目標に向かって事業部を運営しつつも、自分の事業部については自由に運営することができるようになりました。GMは、近代の複合事業部門会社のプロトタイプになったのです。

2)自動車ローン
 フォードが自動車の購入に現金払いしか受け付けていないことに気付き、GMは1919年にGMACを設立し、自動車の新規購入者にローンによる購入方法を提供しました。

3)消費者調査
 スローン氏がMIT(マサチューセッツ工科大学)を卒業して、最初に入社したハイアット・ローラー・ベアリングからGMに至るまで、彼はGMの社内にとどまることなく積極的に社外に足を運びました。GMには、消費者、販売店、部品納入業者を直接研究している専任の部門がありました。スローン氏自身が率先してそれを推進したのです。彼は、販売店や部品納入業者を訪問し、顧客の意見を聞き、R&Dの責任者のチャールス・ケトリング氏と緊密に連携しました。

 これらすべての取り組みが、優れた企業運営と経営管理をGMにもたらしました。しかしGMが次に採った方策こそが、GMを米国最高の企業にし、その後iPhoneに「テールフィン」を付けることになったのです。(後編に続く)

2011年10月18日投稿、翻訳:山本雄洋、木村寛子)

スティーブ・ブランク
スティーブ・ブランク  シリコンバレーで8社のハイテク関連のスタートアップ企業に従事し、現在はカリフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学などの大学および大学院でアントレプレナーシップを教える。ここ数年は、顧客開発モデルに基づいたブログをほぼ毎週1回のペースで更新、多くの起業家やベンチャーキャピタリストの拠り所になっている。
 著書に、スタートアップ企業を構築するための「The Four Steps to the Epiphany」(邦題「アントレプレナーの教科書新規事業を成功させる4つのステップ」、2009年5月、翔泳社発行)がある。