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 経済学を学んでいる者で、アダム・スミス、カール・マルクス、ジョン・メナード・ケインズは、その名とともに、おのおのの確立した経済学を知らない者はいないだろう。しかし、ドイツの経済学者フリードリッヒ・リストの名前は聞いたことがあっても、その経済学について知らない人は多いのではないか。ケインズ以降の経済学者、マーシャルとかサミュエルソンとかフリードマンとかは勉強しても、リストはやっても軽くふれる程度、今さらリストでもあるまい、リスト経済学は学ぶ価値もないと思われているかもしれない。

 リスト経済学がそう思われるのは、単に古いからではない。古いというならば、スミスの方が古い。ジョン・ロック、スミス、マルクス、リカードゥといった労働価値の流れを学ぶ者からだけでなく、ピグーの厚生経済学や、ワルラスの効用革命を学ぶ人たちからも忘れられがちだろう。それは重農主義(フィジォクラシー)と同じく、歴史の中に存在した経済学、過去形で語られる存在なのであろう。

 しかも、今日、リストは評判も悪い。民族主義というだけでも批判の対象としては十分なのかもしれない。ナショナリズムと閉鎖経済ということから、ナチスのひな型と言う人さえいるのである。これを単純に、誤解に基づくものだ、などと言うつもりはない。それよりも、ナショナリズムと閉鎖経済には、積極的に評価してもよい点があるののではないかと思うのだ。

 リストはビスマルクがドイツを統一する前、政治的・経済的にドイツ統一を提唱した経済学者である。1789年8月6日にロイトリンゲンの革なめし匠の子として生まれ、ほとんど独学で経済を学んだ。1817年にはテュービンゲン大学に新しく設立された財政学科「国家政策」の教授に任命されたが、ドイツ商工業同盟を創立し、その活動を指導したため罷免されている。愛国者であるリストは、正統主義を唱えるハプスブルク帝国の宰相メッテルニヒに迫害され、亡命を余儀なくされ、帰郷したところを逮捕されて投獄されている。米国移住を条件として釈放され、放免され、米国に渡った。このとき、同行したのがフランス革命で活躍することになるラファイエットであった。米国での見聞は、リストの学問にも大きな影響を与えている。1832年にヨーロッパに戻り、1843年、ついに代表作ともいうべき『政治経済学の国民的体系』を完成させた。

 この経歴からもわかるようにリストは愛国者であった。ドイツへの強い思いと、封鎖経済の思想とが相まって、ヒトラーの前身のように言う者もいる。しかしリストは、ヒトラーというよりも、むしろビスマルクの前身であった。バラバラになっているドイツ地方を統一し、一つのドイツ人の国を切望していたからである。

 この「ドイツ」という国(当時は地方)の伝統が、リスト経済学を二重に特徴のあるものにしている。『エコロジー』の著者アンナ・ブラムウェルによっても指摘されているが、ドイツの伝統はエコロジーである。ブラムウェルによれば、シュタイナー学派が隆盛を極めたのも、ヘッケルがエコロジー概念を確立したのも、ドイツがそれを受容できたからということになる。ウルリヒ・リンゼはドイツにおける環境運動は、萌芽的意識がすでにビスマルク時代に生まれ、さらにヴィルヘルム2世時代には本格化したと考えている。それはアナキスト、マルキシスト、帝政派、民主主義者すべてのレベルにおいて見られたもので、ナチズムすらもその連続の中に入るようにみえる。つまりリスト経済学も、大なり小なりエコロジカルな伝統の中で語られる存在であるということである。