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 果たして「エコファシズム」は成立するのか、などと言えば、既に存在しているではないかという反論が出てきそうな気がする。一元的な価値観の押しつけ、民主主義の基本原則である「異議申し立て」を認めないといったことは、シーシェパードの行動原理そのものだから、ファシズム集団は存在しているのではないかと。しかし、シーシェパートをファシスト呼ばわりすることは、真性ファシストにも気の毒な気がする。あまりにもシーシェパートの反捕鯨理論が幼稚すぎるからだ。

 シーシェパードに限らない。ともかく「ファシズム」とか「ファシスト」という言葉は便利な言葉らしく、至る所で耳にしてきた。かなり前に、テレビの討論番組を見ていたときも、双方が互いに「ファシスト」呼ばわりしていたのを覚えている。なんとなく「ファシスト」と呼ばずに、「バカ」と言っても変わらないような気がした。おそらく相手を「ファシスト」と批判することは、アジテーションとしては最適なのだろう。ファシズムに対するイメージがあるからだ。言葉の上だけ、真性「ファシズム」とは別種の「ファシズム」が息づいているとみなして差し支えないだろう。

 そもそも、「お前はファシストだ」という批判は、第二次世界大戦後、相手に対するレッテル貼りでは、よく使われるようになったとされている。実際、ファシズムをほうふつさせるような一元的な価値観による強権支配については、私自身も嫌な経験をしたことがある。もちろん、ムッソリーニが生きていた時代には、生まれてもいないのだから、擬似的なものである。それは大学院の学生だった頃、西洋経済史の時間であった。社会の発達とファシズムとエコロジーについての相関の問題を発表していたとき、「ファシズム」という言葉が出ると同時に、当該教師は露骨に嫌な顔をして、発表を中止するよう怒鳴ったのである。言葉だけの「民主主義者」であったその教師にとっては、「ファシズム」という言葉そのものがタブーであって人前で口にしてはいけないことらしかった。「ファシズム」が言論の統制や学問の自由を疎外するものならば、それこそ研究発表を自分の好みで中止するのはファシズム的なはずなのだが。かつて所属した企業の中でも、一種の集団主義で、個人の自由が認められない世界の一端をかいま見ている。

 こうした「ファシズム」的な意味合いならば、誰に対しても、どんな立場でも使えるものである。この便利な言葉が、やたら世上に氾濫している「エコ」と結びついているのだから、どこにでも「エコファシズム」が潜んでいるような錯覚を覚える。シーシェパートなども、確かに「ファシズム」的ではあるが、それ以外にも環境思想家同士では、「エコファシズム」という用語が各種使用されている。

 今までお目にかかってきた代表的なものを挙げれば、例えばソーシャルエコロジーの理論家マレイ・ブクチンにとってみれば、地球の過小な適正人口を述べるディープエコロジストは、強制政治による人口制限という「ファシズム」のイメージなのだろう。ブクチンの批判に対して、ワーウィツク・フォックスは、生命中心主義は多様な自由を認めているから、ファシズムよりも民主主義に近いと反論しているのだが。アニマルライトの理論家トム・レーガンにとってみれば、生態系保存の「ホーリズム」は全体を至上とみなし、個々の利害調整をせず、個々を全体に服属させ、あまつさえ人口制限まで試みるのだから「ファシズム」なのだろう。スピュリチュアルエコロジストのジム・ノルマンにとってみれば、動物と植物に差を設け、動物の中でも格差を設けながら、動物を食べることを禁じようとする動物解放の理論は、食物ファシズムなのだろう。

 これらは、ファシズムを単純な全体主義とみなしての話である。どれもファシズムの一側面は捉えているように見える。しかし、結論的に言えば「エコファシズム」は成立しない。エコ全体主義は成立する。全体主義といっても、ホーリズムのことではない。あくまで思想的態度としての全体主義である。では、なぜ「エコファシズム」は成立しないのだろうか。「ファシズム」自体が、歴史の中の存在であって、もう二度と復活することはないからである。