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 恩師の家で著名な建築家と同席する栄誉を得た時の話である。その建築家を相手に、調子に乗って城の話などをした揚げ句、厚かましくも己の無知を暴露するような質問をした。私の教え子の一人にスペインの建築家アントニ・ガウディを尊敬している五十嵐君という学生がいるのだが、彼へのおみやげ話になるかと思い、「ガウディの建築は、なぜあのような不思議な形をしているのか」と尋ねてみたのである。

 ガウディと言えばサグラダ・ファミリアを初めとして、「溶けかかった蝋細工」や「崩れかかったケーキ」のような形をした建築物を残した建築家である。20世紀スペインの芸術界の巨匠は、どれも溶けかかったり崩れかけたりするような作品を残しているような気がしてならないので、キュービズムのピカソや、シュールレアリズムのダリなどとともに、新しい芸術運動を起こす何かの思想性でもあるのか、何がガウディにあのような建築物を造らせたのかと聞いたわけである。

 件の建築家の答えは、ガウディが生まれた地方に関係があるということであった。ガウディが育ったのはスペインのカタルーニャ地方で、かの地にはガウディの建築を彷彿させるような奇岩が多々ある。あのような芸術を、自然が生み出したとすれば、それはまさしく「土地の力」ではないか。ちなみに、日本で庭園と一体化した最高傑作は桂離宮とのことであった。

 自然と建築が連動しているという考え方は面白い。ルネ・デュボスが指摘するように、土地の自然が社会そのものにまで影響を及ぼしていることになるからだ。しかし、鶏と卵ではないが、人間の登場によって社会が成立して以来、自然が社会に影響を与えているだけでなく、社会もまた自然を形成してきた。今日、人跡未踏の原野など地球上には存在せず、アマゾンの奥地までもが、何らかの形で人間の手が加わっていることが分かっている。特に、フランスの社会派エコロジストであるセルジュ・モスコヴィッシは、我々が目にしている自然は、社会が作り上げたものだと述べている。

 モスコヴィッシは、現代環境思想史上では比較的早期に当たる1968年に『自然の人間的歴史』を著し、社会と自然との関わりを歴史的に分析しているが、社会と自然の連関については社会を第二の自然とみなすことに近い思想を展開している。

 モスコヴィッシは資本主義と社会主義の双方に反対しているが、マルクスと古典的社会主義に一種のエコロジー思想を見ているし、エンゲルスが『自然の弁証法』で生物圏に内側から介入することを述べたことも高く評価している。社会派エコロジーは社会のあり方に環境問題の原因を見るエコロジストの総称であるから、マルキシズムやアナキズムに直接に結びつかない思想家もいる。しかし、私有財産を否定し、国家や社会が財産や経済をコントロールするという社会主義には反対するが、労働の疎外を排除していこうという意味での社会主義は、社会派エコロジストに限定されず、エコセントリズム(エコロジー中心主義)全体に広く見られる。

 モスコヴィッシによれば、社会と自然は常に連動し、結び付いているという。人間は自然の人類史と呼んでいるものの構築に参与しているというのである。自然と社会の対立という形での二元論を展開する思想家は多い。モスコヴィッシも一応は、社会と自然の二つが存在するという意味で二元論の立場である。しかし社会は自然を破壊するとみなす、反自然的社会の存在は否定している。自然と社会が対立するという図式自体が批判の対称となっているのだ。生態学の視点では、人間は自然の秩序の中で位置づけられる。しかし、社会は自然の世界の至るところに存在している。ただ自然の中に社会を築いていくのは高等生物になればなるほど多くなっている。人間の登場も、自然と職種(食糧獲得の形態)との関係という、人間社会の歴史の考察から説明される。