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 環境思想家に限らず、環境問題がこのまま悪化すると、未来世界はどうなるかという不安感は、環境問題に取り組む多くの人の心を支配している。未来を考えるという時、未来学のような予測もあるが、一般的な知名度では予言の方に軍配が上がりそうである。ところが予言とは、外れるのが常識のようである。本来は未来のことを当てるものだそうだが、名高い予言のほとんどが、世の中に紹介される時には「過去に起こったことは的中率90%」とか「ほとんど的確な予言」とされていながら、なぜか紹介された年からその先に起こることは当てられないようである。有名どころでいえば、「1999年七の月、空から恐怖の大王が降ってくる」という一節、かのノストラダムスの「大予言」である。1999年7月に人類は滅亡すると長らく信じ込まされていた。

 ノストラダムスとはルネッサンス期に登場し、難解なので有名な四行詩集『諸世紀』を書いたフランスの知識人である。何世紀かにわたっての未来を暗示したというノストラダムスの詩の解釈はほとんど不可能と呼んでもいいほどに困難であるが、1973年にこれに勝手な解釈をほどこして、無理矢理人類が亡ぶという曲解を載せて本を出版し、大儲けをした者がいる。これは当時、映画化までされて社会全体を一種のパニックに落としこんだ代物である。

 その当時、「恐怖の大王はICBMである」、いや「恐怖の大王は有害宇宙線である」と言っていた人がいるのを覚えているが、ノストラダムスとはルネッサンス期の人なのである。これを抜きにしては詩の解釈などできはしない。歴史家ブルックハルトは「時代精神」という言葉を用いた。ルネッサンス時代の人が、今日でみれば滑稽で理解しがたい考えを持ったりしていたのは、その時代に応じた常識があったからなのである。ルネッサンスの常識を知らずして、ルネッサンス時代の人間の言葉など解釈しようがないはずである。これは社会思想の常識とも言える。

 例えば、ルネッサンス期は新プラトン主義やヘルメス思想といった神秘主義学問が盛んであったが、ここでは数字が意味を成すとされている。666が『黙示録』で言う「獣」であるとか、7とは神が6日かけて天地を創造したあとの休息日だから、1週間の「終わり」を意味するとか、数字は様々な意味を持っている。そうした知識で眺めれば「1999年7の月」なんて、単純な年月ではないことぐらい分かりそうなもの、とはいえ私自身が大学時代に社会思想を学んで、ようやく人類滅亡の呪縛から解放されたのだが。

 予言というものが影響力を発揮するのは、人間の心理に訴えるものがあるからだろう。繁栄を謳歌していても、「本当にこのままでいいのだろうか」という気持ちが多くの人の心の中にはあるからではないか。漠然たる未来への不安感、理想社会の欠如、倫理観の低下、これらは、未来を考える人々の心に暗い影を投げかける。平和な時代が長く続き、繁栄が極に達すると、人々は何らかの問題があるはずだと探し始める。世紀末というのは、そうしたタイミングとしてピッタリだったのかもしれない。このままこうした繁栄が続くはずがない、必ずどんでん返しがあるはずだ。環境問題などが指し示す未来にしても、悲観的なものが多いのは、「こんな生活が続くはずがない」という不安感と無縁ではないように思える。

 人間は自分がいずれ死ぬことは知っている。死が来るという実感は直前まで持たないことも多いが、中にはそれを恐れている人もいる。終末への不安はこれに類似している。不安が行動になって出る。極端な場合には、投げやりで自暴自棄な形をとることさえある。「どうせ先がないのだから」という気持ちが生み出す犯罪もあるだろう。生きることに必死ならばともかく、なまじ時間的余裕があると余計なことを考えて不安になっていく。「小人閑居して不善を為す」とは、まさしくこのこと。ノストラダムス型「予言」とは、その漠然とした不安に具体的な姿を当てはめてくれるものなのである。この心理に便乗して金儲けに走る倫理観の欠如した人々が予言解釈者であり、世紀末バイオレンスと人類滅亡を表現した小説、マンガ、映像などで、限りない悪影響を社会に与えた人々である。