ソニーに入社したのは1976年。オイルショックの直後で大卒の就職が非常に厳しい時期だった。当時のソニーはウォークマン発売の2年前。たまたま会社説明会に行った友人が「面白かった」と話していた。ちょうど意中の会社に振られたところで、受けてみたら内定をもらえ、情報システム部門に配属された。
入社直後の話は次回に譲る。3年後に4カ月の米国出張があった。サンディエゴ工場で生産管理のシステムを再構築するプロジェクトに加わることになったのだ。
ソニーは当時から海外展開を積極的に進め、国際的な仕事をしたいという理由で入社する社員も多かった。だが僕は英語が大の苦手。大学に入るときも、英語ができないせいで浪人を余儀なくされたくらいだ。直前まで仕事に追われ、英語の研修などを受ける機会も無かった。気が重いばかりで同僚と2人でサンディエゴに向かった。
飛行場に迎えに来てくれた先輩の赴任者とオフィスに向う道すがら、「挨拶はハウドゥーユードゥでいいですか?」と聞いたところ、「いまどきそんな堅苦しい挨拶は無いよ。ナイストゥミーチューと言うんだよ」と教えられた。
その言葉を車の中で繰り返しながら、サンディエゴ工場に向かった。現地のIT部門のマネジャーが出迎えてくれたので、早速「ナイストゥミーチュー」と挨拶。その後、システム刷新計画について説明が始まっても、さっぱり分からず、相槌で「ナイストゥミーチュー」「ナイストゥミーチュー」と繰り返すしかなかった。
とんでもないやつが送られてきたと思って、さぞや頭を抱えたことだろう。システム設計では「コミュニケーション」が極めて重要なのは当たり前。IT担当者だけでなく、ユーザー部門とも話をしなくてはいけないというのに。会話の時には、文章の構成などは考える余裕など無く、単語を並べてでも理解してもらうことに専念した。相手もそれを飲み込んでくれたようで、皆僕と話す時には、僕のつたない英語をちゃんとした英語に翻訳してくれる人まで出てきた。
「何をしたいか」ではなく「何ができるか」
そんな状況で4カ月を乗り切り、日本に戻ったが、81年には再び、日本の生産管理の仕組みをサンディエゴ工場に移植するために渡米。翌82年からは米欧の生産、販売拠点のシステム導入や再構築に次々に携わり、10年間を海外で過ごすことになった。
入社当時、IT部門で仕事をすることは本意では無かったし、自分に向いているとも思っていなかった。正直に言うなら、海外に行ってからも、心のどこかに「なんか違うなあ」という気持ちがあった。しかし1つのプロジェクトの終わりが見えてくると、次のプロジェクトにアサインされることを繰り返すなかで、「自分がやりたいことではなく、その時々で自分に課された責任を全うすることが仕事なんだ」という意識が育まれていった。
CIOになってからも、「やりたいこと」ではなく「しなくてはいけないこと」を優先するという意思決定の軸を貫いてきた。そのルーツはこの時の経験にある。
僕のようなキャリアは、ソニーが海外展開を最も積極的に行っていた時期だからこそ可能だったという見方もあるだろう。だが、ここ数年で日本企業の多くは、急速にグローバル化を進めている。これはビジネスのグローバル化と同期して、IT部員に海外経験を積ませる良い機会だと捉えたい。
難しい面もあると思う。手組みではなくパッケージを導入したり、ITベンダーのグローバルなサポートを受けたりするので、日本からIT担当者を派遣する必要性が低い。もし派遣できても、スタッフとしての役割が強く、現場で仕事をする機会は限られるかもしれない。それでも、将来グローバルなITマネジメントを担う人材を育成する良い機会だと捉えたい
システム部門の仕事は「固定化」されがちだ。専門スキルが高まるほど、余人を持って変えられない存在となり、同じ仕事を長く続けることになり、組織硬直化の原因となってしまう。
短期的な効率を犠牲にしても、長期的視野に立った人材育成のために、積極的なジョブ・ローテーションを大切にする組織風土を作りたい。海外に行かなくても、社内の他部門でもいい。人は経験によって成長し、見えなかったことが見えるようになるものだ。
ガートナー ジャパン エグゼクティブ プログラム グループ バイス プレジデント エグゼクティブ パートナー
元ソニーCIO
