セイコーエプソンは2006年4月,コミュニケーション改革の一環としてソフトフォンと既存PBXをベースにした構内PHSの連携を実現した。しかしメーカーが異なるPBXとソフトフォンの連携には,さまざまなトラブルが待ち受けていた。
「最も効果的なコミュニケーション手段は会議である」。セイコーエプソンの経営戦略室・情報化推進サポート部の澤田隆治部長(写真1)は,こう断言する。
澤田部長が会議の必須要件として挙げるのは,「相手の声が聞こえること,相手の表情などが分かるように顔が見えること,そして対象となる資料を共有して作業を進められること」。これらをリアルタイムかつ双方向で実現して,初めて会議が成り立つ。単に社員が一カ所に集まって話をすることを会議と称しているわけではない(図1[拡大表示])。この考えに基づき,セイコーエプソンは遠隔地の社員も交えて会議ができる環境を整備。そのためのツールとして白羽の矢を立てたのが,ソフトフォンだった。
同社は,PBX*で構築した構内PHS*との連携を前提に,PBXとは異なるメーカーのSIP*対応ソフトフォンを導入。2006年4月から同社の一部でSIPサーバーとPBXを共存させたシステムの運用を開始した。
とはいえ,ソフトフォンの導入はすんなりと進んだわけではない。構内PHSとソフトフォンを組み合わせた際に,アプリケーション連携が思惑通りに動かないといった事態が発生した。
そこで澤田部長は,システムの開発を担当した日立インフォメーションテクノロジー(日立IT)と根気強く対応を協議。その結果,日立ITはセイコーエプソンの要望を盛り込んだソフトフォンを開発し,バージョンアップ版としてリリースすることにした。
ソフトフォンで企業風土を変える
セイコーエプソンがソフトフォンを導入したのは,主力製品のプリンタの開発拠点である広丘事業所(長野県塩尻市)。この事業所の一画に4月18日,「イノベーションセンター」と名付けた施設をオープンした。ここで働く約1000人の設計・開発担当者が当初のソフトフォン利用者である。5月時点で,188台のパソコンにソフトフォンをインストール。このほか既にライセンスを1000台分用意しており,順次利用を広げる計画だ(写真2[拡大表示])。
ソフトフォンの導入は,本をただせば収益力強化を狙った同社の中期グループ経営方針に行き着く。その方針の一つに企業風土の改革を挙げており,具体策の一つがワークスタイルの変革だった。個人の生産性向上を目的とし,(1)コミュニケーション改革,(2)セキュリティ,コンプライアンス*強化,(3)ワークスペースの革新──の3点を実現する。これらを実践するモデル職場として選ばれたのが,広丘事業所のイノベーションセンター。(1)のコミュニケーション改革の一環として,ソフトフォンを導入した。
ソフトフォンを使うための土台となる音声/データの統合ネットワークも,既に出来上がっていた。このことも,ソフトフォンの導入を後押しした。2004年には主要拠点間を100Mビット/秒の広域イーサネットで接続し,拠点間のVoIP*化も実現済み(図2[拡大表示])。今のところソフトフォンの導入はイノベーションセンターだけだが,他拠点に展開するための下地は整っている。
「目的をはき違えるメーカーが多い」
セイコーエプソンがソフトフォン導入の検討を開始したのは2005年7月。製品選びのためのコンペを同時期に開催し,8社が参加した。同社のソフトフォン導入はワークスタイルの変革が主目的であり,澤田部長もそれに沿った提案を期待していた。
ところが,ふたを開けてみると「多くの通信機器メーカーは,『PBXの置き換え』という提案だった」。澤田部長は当時を振り返る。澤田部長の考えでは,既存のPBXとソフトフォンは対立関係にはなかった。「将来はIP-PBXがPBXを駆逐するかもしれないが,我々がやりたいのはPBXの置き換えではなく仕事のやり方を変えることだ」。
こうした中,最終的に採用に至った製品が日立ITの「SIP:OFFICE」だった。その選択理由としてセイコーエプソンは,(1)音声品質が良かったことと,(2)アプリケーション連携が既にできていたことを挙げる。
(1)は実際に他のアプリを同じパソコン上で稼働させて,負荷をかけた状態で確認した。また(2)は単なる画面共有ではなく,互いに編集権をやり取りしながらプレゼンテーション資料を仕上げるといった連携ができる点を評価。こうしたSIP:OFFICEの基本機能が「会議」の要件を満たしたことに加え,日立ITが「業務を変える」という視点を曇らせずにシステム提案したことが,澤田部長の目に留まった。
ソフトフォンがPHSの通話を制御
既存の構内PHSとソフトフォンの連携は一見順調に進んだ。
ソフトフォン上の電話帳をクリックして,PHS端末から通話をするといった連携処理も容易だった。SIPには,サード・パーティー・コール・コントロール(3PCC)と呼ぶ仕組みが用意されているからだ。ソフトフォンがSIPサーバーを呼び出し,SIPサーバーが自分のPHSと相手のPHSに電話をかけてセッションを張るといった制御をするため,ソフトフォンの電話帳とPHSがうまく連携できる。
だが,問題がないように見えるこの仕組みに落とし穴が潜んでいた。PHS側で音声セッションを張ると,パソコン側のセッションが切れてしまいアプリ連携ができなくなるのだ。セイコーエプソンは,PHSで会話しながらパソコンで共同作業する使い方も想定しており,この事態は許容できなかった。
そこで日立ITは,SIPサーバーからではなく,ソフトフォンから直接構内PHSなどの他の音声デバイスを制御する仕組みを考案。音声は構内PHSなどの端末でやりとりしながら,パソコン間のセッションも維持し続けることができる「MCF」と呼ぶ技術を開発した。セイコーエプソンの要望から生まれたこの機能は,日立ITのソフトフォンに正式採用され,バージョン「02-05」としてリリースされた。
残されたPHS発番表示不可の問題
ソフトフォンに対する利用者の反応は良好だ。導入当初こそ使い勝手が悪いとする声が多かったものの,1カ月後には「良い」が逆転。アプリ連携の評価も高い(図3[拡大表示])。
ただし手放しでは喜べない。PHSからの発信者番号通知ができないという問題が残されているからだ。発番通知の仕組み自体は難しいものではないが,PBXの機種によっては他メーカーの機器との連携が困難な場合がある。そのレアなケースに,セイコーエプソンのPBXが該当してしまった。
発信者番号をPBX側からソフトフォン側に伝えるには,PBXに改変を加えなければならず,しかも「ライセンスなどの関係からPBX自体を買い替えねばならない事態もありうる」(日立IT)。PBXメーカー製のSIPトランク*を使うことも検討したが,1000万円以上と高額。現在,こうした手段を取らずに,何とか対応できないかを日立ITとPBXメーカーが協議中だ。
発番通知は,利用者にとって利便性が高い発着信履歴と表裏一体。「メーカーが異なるから使えない」では,ユーザーは納得しない。「囲い込みで困るのはユーザー」(澤田部長)。この言葉に,メーカーはもっと耳を傾ける必要がありそうだ。