PR

 冷却期間は必要である。記者は「もし失敗直後にすぐゲーム事業の話が舞い込んだら取り組めたと思うか」と長沢氏に質問してみた。答えは「手痛い失敗の直後にすぐセカンドチャンスを与えられても自信がなかっただろう」だった。次の挑戦に踏み切るに当たっては,「この人とならまた挑戦したい」という気持ちを持てる仕事仲間の存在もカギだったという。

 そして,長沢氏は前回の教訓もきちんと次に生かした。ゲーム事業を引っ張るに当たって「コンテンツの良さは主観的な思い入れでなく,これでどのくらい集客できるといった数字で語るように」と部下に言いつけたのだ。音楽事業では,めいめいにインディーズ系のミュージシャンを推薦したりと,あまりにも社員個々の思い入れが優先されていた苦い経験があったからだ。


競合他社への怒りが原動力に

 サントリーの沖中氏が「伊右衛門」への挑戦に向かうように至ったケースは,長沢氏とはかなりストーリーが異なる。「熟茶で失敗したあと,ある競合メーカーが新聞の一面広告で日本茶の広告を出しているのを見て,『香料入りの邪道な製品が続くわけがない。続いてほしくない』といてもたってもいられなくなった」ことがきっかけだったという。

 沖中氏は熟茶に取り組んだ時から,お茶の品質にはこだわりを持っていた。900年のお茶の歴史は日本の文化そのものだと沖中氏は考えている。失敗による失意は,香料入り製品を大々的に売り込む競合メーカーへの対抗心によってかき消された。

 この並々ならぬお茶文化への愛情とプライドが,新しい製法のための設備投資の必要性を経営陣に訴える原動力ともなった。伊右衛門では,加熱殺菌せずに無菌室で常温のお茶をペットボトルに充填するといった工場への投資を行っている。また,熟茶の失敗を冷静に振り返り,お茶に関するサントリーのブランド力の弱さを沖中氏は直視した。そこで,老舗のお茶屋との提携も粘り強く交渉して実現させた。

 沖中氏は現在,課長として後進を指導する立場にある。「部下にも,失敗したときでもまた前に進めるよう,正しい努力とは何かを理解していてほしい」と,商品企画スタッフがなすべき正しい努力を評価シートにして話し合う試みも始めている。


ふがいない周囲に怒って奮起

 鵜之澤氏の場合は,紆余曲折があるものの,「怒り」が直接のきっかけになったという点でやや沖中氏のエピソードと似た部分がある。

 ピピンの失敗によって,バンダイは1998年3月期に270億円の特別損失を計上した。その後,鵜之澤氏は辞表を出したものの受理されず,「ひょっとしてこのまま飼い殺しかな」といったんは覚悟した。失敗直後にはアニメーションとゲームソフトをメディアミックスでプロデュースする数人規模の子会社を立ち上げようと企画書を出したものの,「270億円もの特損を出す大失敗をした社員に,また堂々と新会社を立ち上げさせるわけにはいかないんだ」と当時の社長から諭され断念もした。

 もともとアニメや映画の企画スタッフとしてのキャリアが長い鵜之澤氏は,その後1年間ほどアニメなどのプロデュースをこなした。だが,転機は突然訪れた。当時の役員から,「自分は新規事業に集中したいので,いままで自分が担当していたビデオゲーム事業のマネジャーをやってくれないか」と打診されたのだ。

「大失敗をした自分に任せるのはありえないんじゃないですか,とまず軽く辞退した。午前中にそんなやり取りをした後,ピピン時代からの部下2~3人と昼食に出て,『実はさっきビデオゲームをやれと言われたんだよ』と言ったら,『絶対やめたほうがいいですよ』『うちのビデオゲームはうまくいくわけないですから』と否定的な意見ばかり。逆にそれでムカっときた。情けないな,なんでビデオゲームはダメだと決めつけるんだよ,と。途端にやる気が出てきて,その日の午後にはゲームの話は前向きに考えさせていただきますと役員に伝えた」(鵜之澤氏)

 実は,当時のバンダイのゲームは「有名キャラクターは出てくるのにつまらないゲームばかり」という悪評が社内外で定着していた。鵜之澤氏もピピンを担当していた当時から,「なんでこんなクソゲー(つまらないゲームソフト)ばかりできるんだろうと思っていた」という。

 鵜之澤氏がゲーム担当になり真っ先に見直したのは,ゲーム制作のプロセスだった。その秘けつはアニメ制作では常識の「前倒しでヤマ場のシーンだけ先に作り,出来を社内外にアピールする」という制作プロセスを,ゲーム制作に取り入れたことにあったという。これが効果を発揮してヒット作を出すようになり,鵜之澤氏は再びゲーム部門幹部としての道を歩み始めた。

 鵜之澤氏が部下に指示したのは「途中の1ステージだけでいいから,グラフィックとプログラミングをまず開発して動かして見せてくれ」と,ヤマ場のステージだけをまず作らせることだった。

 従来のバンダイのゲーム部門では,ゲーム開発は完成直前までグラフィックとプログラムが別々に全ステージ分開発されて,発売2ヵ月前になって,ようやく動くゲーム画面を見られるようになるというのが常識になっていた。鵜之澤氏が早めにヤマ場の1ステージ分だけを開発させるよう制作進行を変えたことで,“クソゲー”の制作を開発の初期段階で防止する手が打てるようになった。


現場も変わらなければならない

 くじけそうになりながらも自分の仕事にプライドを持ち続け,見直すべきは見直してマネジメントを変えていこうという前向きな意思を持ち続けること。3者のエピソードを振り返ると,こうした気概が次の挑戦を成功させる原動力になったことが分かる。奮起までどのくらいを要するかに個人差はあるものの,それぞれ自らの失敗を冷静に振り返り,そこから何らかの教訓を見つけて次の仕事のやり方に結びつけていた。

 「経営トップが変わらなければ,組織の風土は変わらない」というのは確かだろう。だが,現場サイドもまた,一時的な失敗にもめげず,そこから次は仕事のやり方をどう変えるかを積極的に考える気概を持ち続けられることが,失敗を生かす組織の必要条件である。それができたら,経営トップから「また大きな仕事をさせてみようか」と思ってもらえる信頼感を獲得することも,よりたやすくなるのではないだろうか。