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 「ITのインフラでなぜ日本メーカーは米国勢に席巻されてしまったのか」。このテーマで日本のコンピュータ産業について、猛烈に原稿を書きたくなりました。きっかけは、日経コンピュータ編集部から「創刊25周年を記念してEnterprise温故知新というサイトを作ったので、そこに一筆書いてほしい」と依頼があったことです。ちょっと書けばよいのだろう、と二つ返事で引き受けたものの、20数年間を振り返ってみると一筆では済まないという気になり、一気に書き上げてしまいました。結果として相当な長文になってしまいましたが、ご一読いただければ幸いです。

 私は日経コンピュータ創刊3年目の1983年9月に、日経コンピュータ記者として日経BP社(当時は日経マグロウヒル社)に中途入社しました。当時のコンピュータ業界は、前年の82年6月に米IBMの機密情報を巡って日立製作所と三菱電機の技術者が“おとり捜査”で逮捕されるなど、きな臭い雰囲気が漂っていました。この裏には、自動車やテレビ、プラントなど、米国商品をリバースエンジニアリングし、それに継続的な改善活動を加えながら強固な技術基盤を作り上げ、成長を遂げた日本の産業界に対する、積もり積もった米国の怨嗟があったはずです。その日米経済戦争の象徴が「逮捕劇」だったのです。特に、コンピュータや半導体は最先端技術であるだけに、鮮烈でした。

 70年代後半と80年代は、米ハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授が書いた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の“日本に学べ”の一方で、強敵となった日本の経済・産業に対し、米国が産官学総力で反撃ののろしを上げた時代でした。米MIT(マサチューセッツ工科大学)が報告書「メイド・イン・アメリカ」を出版し、競争力評議会(COC)が「国際競争力と新たな現実」、通称“ヤングレポート”をレーガン大統領に提出したのは85年です。

 ヴォーゲル教授は2004年に出した「ジャパン・アズ・ナンバーワン」復刻本の序文で、「ライシャワー駐日大使から『日本人がごう慢になるから日本では発禁本にしろ』と言われた」と述懐していましたが、当時の日本にはそういう一面があったのかもしれません。マンハッタンのロックフェラービルなど米国のシンボルを次々と買いあさり、80年代の終盤、88年末には、世界の時価総額ランキング100社中51社、上位20社中18社が日本企業という異常な事態となっていました。これに対し、米国の金融機関は瀕死の状態でした。親日派のライシャワー大使は1979年に発刊された「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の奥に隠された、米国の反撃の意図を察知していたのでしょう。

 後日談ですが、93年にクリントン政権が誕生し、まずホワイトハウスに設けたのが「経済安全保障評議会(ESC)」でした。クリントンは、米ソが冷戦でしのぎを削っている間に漁夫の利をむさぼったのは日本とドイツであると認識し、日独、特に日本を「経済仮想敵国」として、猛然と挑み始めました。ESCを置いた狙いは、日独の経済を弱体化させるためのシナリオを描くことだったと想像できます。そのESCの議長はだれあろう、日本のごう慢さと底流にある脆弱性を見抜いていたヴォーゲル教授だったのですから。クリントンは適任者を戦略的に任命したのです。そして改めて触れるまでもなく、日本の金融業界は突然、不祥事がとどまるところなく一斉に暴露され、護送船団は太平洋の藻くずとなりました。

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」復刻本の序文には、「ネメシス(応報天罰の女神)」が何度か出てきます。イカロスが天性の資質故に最初は目覚ましい成功を遂げながらも、翼を得て得意のあまり太陽に近づきすぎ、ろう付けの翼が溶けて海に墜落しまう、というギリシア神話があります。イカロスは「ネメシスの報い」を受けたのです。ヴォーゲル教授が言うように、ネメシスはかつて日本の頭上にいた可能性があります。

 25年前は「特別な時期」だったと、ヴォーゲル教授は指摘しています。米国には敵がい心や誇り、挑戦心が生きていました。その世代の人々は現在、一線から姿を消していますが、今、米国に変わるリーダーシップを発揮できる国はないでしょう。ネメシスは、餌食になる別の国(米国)が生まれつつあることに、微笑んでいるのかもしれません。

ITインフラはすべて米国に押さえられた

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」復刻本の存在を教えてくれた、RITAコンサルティングの伊東玄主席研究員は次のように話しています。「ネメシスが日本の頭上から去ったにもかかわらず、残念なのは、ヴォーゲル教授が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で紹介している成功モデルの21世紀版を、日本が提示できていないことです」。これは、IT産業にも言えることではないでしょうか。

 一時は先端技術をちりばめたIBMメインフレーム互換のPCM(Plug Compatible Manufacturers)として、世界の市場を席巻する勢いがあった日本のIT産業は、IP(知的所有権)問題で叩きのめされ、自信喪失の間に、ITインフラのベースをすべて米国に押さえられてしまいました。いわば、日本はITの利活用という「応用技術」に追いやられたのです。それが「ソリューション・サービス・ビジネス」です。今日的には美しい響きの言葉ですが、気付いてみれば、そこは労働集約的でローカル、かつ過当競争の世界でした。

 しかも、日本のIT各社は、米企業の同じ製品を個別にライセンスしてもらい、それを使って戦っています。伊東主席研究員は、「かつて米原住民に鉄砲を売りつけ、仲間同士で戦わせたやり方と同じ。米国による“IT植民地政策”が日本で行われ、それは成功しつつあります」と、日本のIT産業の実情を厳しく分析しています。

 そう言えば、2000年の沖縄サミットでITの重要性を主張し、日本にITの利活用を勧めたのはクリントン大統領でした。その翌年から、政府はe-Japan計画を発動しました。しかし、そこではITの利活用ばかりが強調され、5年間で10兆円も投下しながら、日本のIT産業(ハードやソフト)を復活させる施策は1つも無かったのです。e-Japan開始の2001年に、日本の大手ITベンダーが韓国サムソングループから買収を持ちかけられるほど、日本のベンダーが傷んでいたのにもかかわらず、です。そして結局、米国製品の氾濫です。

 このまま日本のIT企業が「サービス指向」でグローバルに進出すれば、米製品を担いで行商に歩くようなものです。日本IT産業は、60~70年代に生きていた敵がい心や誇り、挑戦する心を取り戻さねばなりません。そう考えるIT業界人は少なくないと思うのです。

 20歳代をIBMメインフレームの牙城、ポケプシー事業所の開発部門で過ごしたある技術者は、「あのとき、日本勢が歯を食いしばっていれば、今日のように日本がITインフラを米国に席巻されることはなかったのではないか」と振り返っています。「あのとき」を理解するには、時計の針を戻してみなければなりません。少し長くなりますがお付き合いください。