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富士通と日立は「太陽に挑んだ惑星」

 先に挙げたイカロスの神話は、伊東主席研究員に聞いた話です。この話を聞き、すぐにこれは日経コンピュータ創刊時のころのコンピュータ産業に当てはまる、と思いました。この産業は60年代には「白雪姫と7人のこびと」と言われ、70年代から80年代は「太陽系」に例えられるほど、IBM独占の時代が長かったのです。米国のリサーチ会社、IDCによると、1980年の世界のコンピュータ産業規模は500億ドル。IBMの売上は262億ドル。なんとシェアは52%もありました。それ以前は70%とも言われていました。

 「白雪姫と7人のこびと」の7人とは、GE、RCA、ハネウエル、バロース、ユニバック、CDC、ゼロックスのことでした。それぞれIBMメインフレームとは異なるアーキテクチャ、つまりIBM非互換のコンピュータを開発し競合しましたが、すべてIBMに破れ、コンピュータ・メーカーとして事業を継続している企業は現在1つもありません。ユニバックとバロースが合併を経てユニシスとなり、インテグレーション・ビジネスをしているだけです。

 IBMに挑み、倒れた勢力に代わって、60年代後半からはIBMの勢力圏内で戦う互換ビジネス、いわゆるPCMが登場してきました。PCMビジネスは、ディスクやテープ装置から始まりました。IBMメインフレームに接続して利用できるディスク装置やテープ装置を開発し、IBMユーザーに販売するビジネスです。本家のIBM製ディスクやテープ装置より、安くて性能の良い製品を開発することがカギでした。

 メインフレーム本体で互換ビジネスに挑戦したのが、富士通と日立です。両社は71年にコンピュータ共同開発の方針を発表し、IBM互換メインフレームは76年末から日米欧の市場で出荷されました。当然狙うは、IBMユーザーが使うメインフレーム本体そのものの置き換え(リプレース)。まさに正面切っての挑戦です。

 ここでの比喩が「太陽系」でした。IBMは太陽で、富士通や日立などのPCMはその周りを回る惑星、という例えです。互換ビジネスは、イカロスのように太陽に近づきすぎるとコロナに焼かれてしまいますが、最近惑星から落ちこぼれた冥王星のように遠い軌道を回ると、太陽の恵みに浴さず滅びてしまいます。PCMの生存領域は、太陽とつかず離れずの地球とか火星の軌道を回る、極めて狭い範囲でした。後になって分かりましたが、この太陽系は、実は銀河の中の1つに過ぎず、パソコンやオープンシステム、インターネットというIT銀河に飲み込まれていきました。今のIBMのシェアは8%強です。

 先に紹介した元IBM技術者は「プロセッサはOSで最適化されるため、OSを開発しないと良いプロセッサは作れない。この逆も真」と経験から話します。OSもプロセッサも、情報の入り口と出口、つまりインタフェース情報は公開されていますから、その中味は、論理回路であれ、プログラムコードであれ、独創性を発揮して開発できます。「本家(IBM)より、OSもプロセッサも良くすることは十分可能だった」と、元IBM技術者は言います。実際、富士通と日立は、IBMがICを搭載していたときにLSIを採用するなど、IBMメインフレーム上で開発されたアプリケーションを、IBMメインフレームよりも速く、安く処理できるコンピュータの開発に挑みました。

 こうした互換ビジネス自体を「独創性がない」と批判する向きがあります。これに対して、IBM互換メインフレームの開発を決意した富士通の故池田敏雄氏は「顧客のビジネスや研究開発を実現・支援するアプリケーションは知的財産(知財)です。それを速く、安く動かせるようにするのが技術者の使命。そして、IBMメインフレームの上で動く知財が世の中で最も多く種類も豊富なのです。IBMと競合することで、顧客の選択肢が増えます」とインタビューで力説していました。この発言は、今でも鮮明に記憶しています。

 池田さんの戦略は、主に海外市場ではIBM互換メインフレームにIBMのOSを搭載してもらう、日本市場ではIBM互換メインフレームに加えてIBM互換OSまで開発し、それを搭載して売り込む、という二正面作戦でした。OSソフトによる日本文化の継承を想定したものですが、これはIBM元技術者が指摘した「自社でOSを開発しなければプロセッサも良くならない」という考え方に沿っています。

「歯を食いしばれなかった」ことが今日の惨状招く

 こうして富士通と日立はIBM互換メインフレームの開発を始めたのです。しかし、IBMは“動く標的”です。実際1973年に、アーキテクチャを一変させました。それまでのSVS(単一仮想記憶)からMVS(多重仮想記憶)への変更です。互換機や互換OSの開発は、振り出し近くまで戻らざるを得ませんでした。IBMが新アーキテクチャに基づく実際のハードやOSを出荷したのは74年でしたから、富士通と日立は実質、そこから再スタートとなりましたが、池田さんはその74年に他界されました。

 先に、「あのとき、日本勢が歯を食いしばっていれば、今のように日本がITインフラを米国に席巻されることはなかったのではないか」という元IBM技術者の発言を紹介しました。「あのとき」とは、この74年を指します。富士通と日立の両社は、これまでの投資の回収や発売時期の問題など複雑な要素のなかで、IBMが開発したOSのコードを自社のOSに取り込んでしまったのです。おそらくビジネスライクな考え方に支配されたのだと思います。元技術者は、「リーダーである池田さんが生きていたら、出荷時期を遅らせてでも自力でIBM互換OSを開発しただろう」と話しています。

 当時のIBMメインフレームOSであるMVSの規模は1200万ステップありました。「優秀なSEでも年間3000ステップが開発の限界」(元IBM技術者)なので、1年でOSを作ろうとしたら4000人、2年なら2000人必要になる計算です。富士通と日立の共同開発は名ばかりで、実際は別個に開発していました。それぞれに優秀なSEをどれほど抱えていたかについては、疑問符が付きます。

 ただし、ここが微妙なところなのですが、当時、OSは著作権で保護されていませんでした。ユーザーに対してコードは公開されていましたし、どのような仕組みになっているのかというロジックを記述したドキュメントも公開されていたのです。OSはパブリックドメインという公共財扱いでしたから、富士通や日立がやった行為は、法的には違反ではありません。その後の係争でも、著作権違反があったか無かったかについて、白黒は付けられていないのです。しかし、一部とはいえ、IBMが開発したOSのコードを取り込んだことによって、「技術者が考えることを放棄した」(元IBM技術者)とは言えます。