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「問題なし」から一転して「問題あり」に

 もっとも、富士通は多少危うさを感じていたのでしょう。1978年ころ、米国の著名な調査会社数社に「パブリックドメインのOSコードを取り込む互換ビジネスの見通し」についての見解を求めました。回答は「問題なし」だったそうです。そして76年に、米NASAにIBM互換機の1号機が納入され、欧米市場では瞬く間に市民権を得ていきました。IBMメインフレーム本体の世界に初めて「競争」が出現し、顧客は歓迎したのです。日本市場でも富士通、日立合わせて、80年代中盤までに500台を超えるIBM互換メインフレームがユーザーに受け入れられました。こうして両社のコンピュータ・ビジネスは大躍進しました。

 しかし冒頭で触れたように、米国は産官学が連携して日本への対抗措置を打ち出し、両社の「拠り所」をほごにしました。1980年、米国著作権法が改正され、著作権でOSのコードが保護されることになったのです。富士通の場合、西独シーメンスと富士通オーストラリアが、富士通製OSを搭載してIBM互換ビジネスをしていました。富士通のOSの価格が安かったからです。そこでIBMは、富士通製OSにおけるIBMコードの存在を知ることとなりました。そして1982年秋から、IBMと富士通の両社がテーブルに着き、OSのコードを巡る交渉を開始したのでした。

 日経コンピュータに私が加わったころは、富士通とIBMが83年に締結した、いわゆる「秘密契約」の解釈や運用を巡って、両社が水面下で丁々発止の最中でした。「取り込んだコードについてそれなりの対価は払う。しかし、要求額は法外で、これではビジネスを継続できない。富士通とIBMは呉越同舟ではないか」(富士通)、「富士通が勝手に船に乗り込んできただけだ。適正価格を払えば、向こう岸に降ろしてあげよう」(IBM)。おそらくこんな調子だったのでしょう。結局、交渉はもつれ、AAA(米国仲裁協会)に持ち込まれたのです。

「考えることをやめた」代償

 AAAは富士通に対して、過去のコード侵害についてのIBMへの一括支払いとともに、今後支払いを継続しない場合は「コードの書き直し」をするよう命じました。同時にIBMには,セキュアード施設(千葉県に設置)内で富士通がOS関連ソフトを閲覧することを許可するよう命じました。それに基づいて富士通は、互換性を維持しつつも、徐々にOS互換からの撤退を進めていたのです。この辺の事情については、日経コンピュータで特別取材班を組み、その内実に迫っていきました(特別取材班など報道体制については別掲の特別寄稿初めて明かす、「IBM・富士通紛争」徹底報道の舞台裏を参照)。

 今振り返ると、ちょっと残念なのは「互換ビジネスすなわち悪」というトーンが少し強かったことです。本来は「技術者が考えることをやめた」、すなわち「ソフトの創造放棄」についてもっと論じるべきでした。

 ここで図を1点お見せします。これは富士通が連結決算を公表し始めた1977年からのIBMと富士通の「売上原価率」と「営業利益率」を比較したものです。「売上原価率」のグラフから分かるのは、85年から3年間、富士通の原価率が跳ね上がっていることです。これはIBMへの一括支払いのためと思われます。実際にいくら支払ったのかは分かりません。しかし、膨大な金額であることは間違いないでしょう。これは、米国の産官学一体になっての反撃の成果と言えるでしょうし、富士通が「考えることをやめた」ことの代償なのかもしれません。

図●富士通と米IBMの売上原価率/営業利益率の比較(1977-2005)-原価率の違いが営業利益率の格差に

 図の売上原価率と営業利益率を合わせて見ると、IBMは、メインフレームというハードを中心にした、80年代の「箱売り」時代は高収益でした。一方、富士通は、「顧客のアプリケーションを積極的に開発する」戦略だったため、おそらくソフト開発の人件費(原価)が負担になっていた、と想像できます。ただし、IBMも90年代にサービスビジネスにシフトし始めてから原価率が高まっています。2005年に原価率が下がったのは「インドへのサービスデリバリー統合」の成果が表れたのかもしれません。インドIBMは過去3年間で3万4000人も増員しています。最近、富士通の黒川博昭社長は「顧客のパートナーになるには、まず原価率を引き下げることです」と話していますが、その傾向はこの図を見る限り、まだ見えてきません。

今こそ若手がチャレンジすべき

 長々と温故知新を書いてきました。OSもプロセッサもほとんど手放してしまった富士通、日立、NECの3社ですが、ネメシスが違う方角へ飛んだ現在、ITインフラの開発力強化を再度図らねばなりません。日経コンピュータは2006年1月9日号の特集「甦れ!日本のIT」の中の「日本情報産業 最後の挑戦」で、情報産業振興議員連盟が2005年末に打ち出した、プロセッサやOSの再開発まで含めた産官学の「ユビキタス・オペレーティング・プラットフォーム(UOP)戦略」をレポートしました。「ソフトの創造放棄」から脱する計画はあるのです。まだ予算獲得に至ってはいませんが、ぜひ総力を挙げて取り組んでもらいたいと期待しています。

 「UOP戦略」について、その背景を少し説明させてください。まず、かつて富士通や日立がIBMに挑んだ「PCMアーキテクチャ」は、現代の「オープンアーキテクチャ」に通じるものだと考えています。あのとき、IBMのアーキテクチャは書籍などで開示されていたからです。だから、世界の顧客の知的財産(アプリケーション)は、IBMとPCMのメインフレーム上で構築されたのだと言えるでしょう。従って、世界の知財を継続保証することがメーカーの責任となり、IBM互換は、まさに道路や電気、電話のごとく「標準」を意味したのです。

 現代のオープン時代も、まさに「互換の時代」ではないでしょうか。世界中のオープンシステムの上に築かれた知財は、この10年で、おそらく累積500兆円以上に上るはずです。その知財が世界中に蓄積されているので、世界の国民が共有すべき知財という財産を保証することが、IT企業の役割となっています。これは、世界レベルでのCSR(企業の社会的責任)とも言えるでしょうし、世界の国富を有効活用することをも意味します。

 こうした認識に立てば、オープン時代のアーキテクチャは、世界の知財を保証するために、世界が共有すべきアーキテクチャではないでしょうか。現代は、そのアーキテクチャを基に世界の国家や企業が技術開発でしのぎを削り、少しでも安く、高性能で、省電力で、使いやすい技術の開発競争をする時代だと思います。つまるところ、PCM時代もオープン時代も、その本質は同じということなのです。池田さんはそのことを既に見抜いていたのです。

 UOP戦略は、以前は「UCM戦略」と呼ばれていました。「ユニバーサル・コンピューティング・モデル」という意味です。ユニバーサル・コンピューティングには、共通のアーキテクチャが必要です。それを21世紀の仮想化技術により実現する、というのがUCM戦略の基本です。そして世界は、その方向に行かざるを得ないのです。なぜなら、すでに500兆円もの世界に蓄積された知財が“人質”となっているのですから。

 先の元IBM技術者は、27歳で課長、31歳で部長となり600人の部下を抱えたそうです。かつてのIBMは、若い人に思い切って仕事をやらせる気風がありました。現在の富士通や日立の一線からは、IBM互換ビジネスに関与した世代の人々は姿を消しています。過去のしがらみから解き放たれた若い世代がリーダーシップを発揮し創造的な仕事に挑戦する体制を作るーー。これこそが経営者が責任をもって行うことではないでしょうか。

 かく言う私も団塊世代です。若い記者の成長を楽しみにしながら、あと少し日経コンピュータでがんばりたいと考えています。