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オープンソースの成功を社会や政治に応用する可能性

 次に,梅田氏のインタビューに対し,Seasar2の作者であるひがやすを氏が「日本にはオープンソースが根付いておらず,オープンソースを育む土壌がないとする梅田氏の見解は誤りだ」とするブログのエントリを公開した。これに対し,梅田氏自身がひが氏のブログのコメント欄で,オープンソースの考え方が根付いていないと述べたのは政治や社会の領域であり,オープンソースではないとコメントした。

 だがこのやりとりが話題になったことで,意外なことが起きた。オープンソースのあり方を文化や政治,社会問題に応用することについてや,オープンソース・ソフトウエアが成立する条件についての優れた論考が続いて現れたのだ。

 Ruby用HTMLテンプレートエンジンAmritaの作者であるブレーン研究部部長 中島拓氏は,同氏のブログ「アンカテ」に「成果が永遠にみんなのものであり続ける仕組みも含めてオープンソースという言葉を使おう」というエントリを執筆,オープンソースという言葉をソフトウエア以外に使用することの是非について書いている。オープンソース・ソフトウエアはOpen Source Initiativeによって定義された言葉であり,この定義に外れたソフトウエアをオープンソース・ソフトウエアと呼ぶことは有害だと中島氏は指摘する。

 それではソフトウエア以外のものにオープンソースという言葉を使うことは? 中島氏は「みんなの小さな利他が集まると、そこにコスト無しで所有者のいない経済的な価値が生まれる」ことと同時に,それを独占しようとする者が現れることもオープンソース・プログラマたちが経験したことであり,成果が奪われないための確かな仕組みが必要だと指摘する。

 GPLの日本語訳の作者であり,Debian GNU Linuxの開発者でもある東京大学の八田真行氏は,「「オープンソース」の二つの意味」と題する論考を発表した。オープンソースには法的なライセンスという側面と,開発形態という側面の2つがある。オープンソースのイメージとして一般に流布しているのは後者のバザール・モデルを主とした開発モデルだ。

 オープンソース・ライセンスは,バザール・モデルによる開発に必ずしも必要不可欠というわけではない。オープンソースの開発モデルが保障されるためには,オープンソースの法的な側面が確保されていなければならない。ライセンスが曖昧ではプロジェクトがつぶされたり権利者に成果を独占されてしまったりする恐れもあると八田氏は指摘する。

当事者,第一人者によって正され,深められた議論

 ひとつのエントリをきっかけに,当事者であるオープンソース・プログラマ「オープンソース的」という言葉についての誤解が正されていき,しかも第一人者により正確で深い表現で語りなおされ,課題も提示された。それを読んでいた記者の思い込みも修正されていった。その様子は見ていて感銘を受けざるを得なかった。記者は,Linuxがバージョン 0.01で,ようやく動くようになった段階で公開されたことを思い出した。

 梅田望夫氏はオープンソース・ソフトウエアの成功を社会的な問題に応用する可能性について以前から何度か語っている(梅田望夫×まつもとゆきひろ対談 第2弾「ネットのエネルギーと個の幸福」)。

 「オープンソースをやらずして、オープンソースは分からぬ」と,Perlの多言語変換モジュールEncode.pmを開発したオープンソース・プログラマである小飼弾氏は言う。小飼氏の言うとおり,オープンソース・ソフトウエア分野をウォッチしてはいるが,オープンソース・プログラマではない記者にとって,成功したプロジェクトがなぜうまくいったのかなど,オープンソース・ソフトウエアについては今もわからないことだらけだ。本稿にも,誤りがあるかもしれない。

 しかし,これら「オープンソース的」という言葉を巡って交わされた議論と論考を見て,なぜ10年以上前からオープンソースについて言及してきた梅田氏が,オープンソースの成功を社会的な問題に適用する可能性について考え続け,希望を表明していたのか,その理由は理解できるような気がする。

 ネット上で自由に情報をやりとりして共同作業できる環境は,今はプログラマだけに開かれているものではない。ニコニコ動画などを見れば分かるとおり,文化の領域では,不特定多数の共同作業による創造から多くの優れた作品がすでに現れている。

 ApacheやBINDや,Linuxなどのオープンソース・ソフトウエアは,インターネットという世界そのものを作り上げていると言える。多くのオープンソース・ソフトウエアを生んだ,インターネットというコミュニケーション環境は,我々が住むこの現実の社会を変えることができるだろうか。記者は,変えることができると考えている一人である。