昭和50年頃の第二次金融(証券)オンラインでの戸田さんの活躍はまさに,“プロジェクトX”です。日本で前例がない,いや,世界でも初めてのことばかり。そんな話を数年前に聞いた時は,血湧き肉踊る感動がありました。汎用機の古い時代ですが,全く陳腐ではありません。汎用機がオープン・システムを経てWebアーキテクチャになったからといって,それだけで「IT戦略」や「IT革命」ができるわけではないのです。

昭和50年前半の野村證券からのシステム要望は以下の5つでした。

 1.株式に次ぐ第2の米びつ(債権トレーディング)を育てる
 2.必要なITコストは自ら稼ぎ出せ!
 3.薄利多売に備えるための徹底的な利益管理
 4.10倍以上の商いに耐えるシステム
 5.災害時でも24時間以内の復旧

 プリミティブなオンライン技術があっただけで,その当時のIT技術では不可能なことばかり。尻込みするコンピュ−タ・メーカー。2の「必要なITコストは自ら稼ぎ出せ!」を実現するためのコスト削減も,それまでのIT化で要員はすでにギリギリまで削減した状態であり,新しい発想がなければ,省力化は全く不可能でした。

 野村證券からの要件は経営のニーズであり,その解がITにあるかどうかも不明でした。事実,戸田さんたちは,ボヤッとした構想段階に相当な時間をかけています。新聞や雑誌や文献論文を読んだり,専門家に話を聞きにいったり。たちまち,日数が過ぎて行ったそうです。

 それでも度重なる議論から,構想が徐々に整理されていきました。戸田さんたちは,できあがったシステム構想を,スタンフォード研究所(SRI,現SRIインターナショナル)を中心とする米国シンクタンクに評価してもらいました。シンクタンクのご宣託は,「間違ってはいないが,世界にもない複数の新技術を取り込まねばならず,成功の確率は低い」だったそうです。それを聞いて戸田さんたちは「間違ってないなら,挑戦すべし!」と迷うことなく決断されたそうです。まさに向こう見ずなチャレンジャーです。

 結局,戸田さんたちは「すべての業務をコンピュータとの対話で」をコンセプトに,それを可能とするアーキテクチャ(全社員端末,CPU性能に制約を受けない,パケット通信,分散汎用機....)を設計し,全ての業務をゼロベースで再設計しました。ギリギリまで削減したと思われていた省力化でも,さらに1000人(間接要員の2割)の省力化を実現しました。BPR(ビジネスプロセス・リエンジニアリング)どころではない激変です。

 ここで使われた思考パターンは,コンサル脳でしょうか?否,SE脳なんです。戸田さんにとって,システム・エンジニアリングの定義は,見事なまでシンプルに「個々の要素が有機的に組み合わされ,まとまりをもつ全体体系(=システム)」を対象とする工学的手法でした。そして,システムを扱うエンジニアであるSEとして,目標を実現されました。

 無謀と思える野村経営陣の要望とITへの大きな期待。イノベーティブなア−キテクチャの開発,コンピュター・ベンダーも巻き込んだプロジェクト制の導入,斬新な数々の試み。まさに構築ではなく開発でした。一騎当千の梁山泊のような様相だったそうです。一難去ってまた一難,勇気とチャレンジ精神が枯渇することは皆無。まさに“プロジェクトXの世界”です。

 「経営ニーズをシステム・ニーズに転換する」に真のSEのソリューション・ミッションがあります。ユーザー(野村経営陣)は要望や思いを伝えただけ。それをITでどのようにで実現するか,その解(ソリューション)はSEに委ねられていたのです。今のSEとは大分違いますね。