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今回のWinny判決で原告の側からも被告の側からもそれほど追求されなかった課題がある。

ソフトウェアと表現の自由、である。

「Winny 憲法」で検索すると、引っかかるのは「プロバイダーによるWinnyパケットの規制が憲法違反でないか」というものばかりで、Winnyのリリースそのものが表現の自由であるという主張はあまり見つからなかった。その数少ない例外が、Matzさんの以下のentry。

Matzにっき(2004-05-11)
日本国憲法には
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
[日本国憲法より引用]
とあるのだが。法治国家としてはゆゆしき事態では。

私もこれに全面的に同意する。

ソフトウェアというのは、道具である以前に表現なのではなかったのか?

少なくとも、それがオープンソース、いやその源となったフリーソフトウェアの思想である。

The GNU Operating system - the GNU project - Free Software Foundation - Free as in Freedom - GNU/Linux
  1. The freedom to run the program, for any purpose (freedom 0).
    [目的を問わずソフトウェアを実行する自由]
  2. The freedom to study how the program works, and adapt it to your needs (freedom 1). Access to the source code is a precondition for this.
    [ソフトウェアを解析し、目的にあわせて調整する自由。ソースコードへのアクセスはその前提条件となる。]
  3. The freedom to redistribute copies so you can help your neighbor (freedom 2).
    [隣人を助けるために複製物を再配布する自由]
  4. The freedom to improve the program, and release your improvements to the public, so that the whole community benefits (freedom 3). Access to the source code is a precondition for this.
    [プログラムを改良し、そして社会全体が利益を得るようにその改良点を公にする自由。ソースコードへのアクセスはその前提条件となる。]
[抄訳は弾による]

もちろん以上の主張はもう一つのcode、すなわち社会における法とかち合う。しかしその根底には、ソフトウェアが表現であるという思想があるはずだ。

ときに被告側は、「ソフトウェアの作成は表現の自由であり、またソフトウェアの公開は出版の自由である」という主張をどの程度行ったのであろうか。またその主張が行われたとして、検察側はそれに対してどう答えたのか。「asahi.com:「ウィニー」裁判、判決要旨?-?社会」を読んでもいまいちピンと来なかった。

このあたりの「欲求不満感」を、この裁判をずっと傍聴してきた佐々木氏は「ネットvs.リアルの衝突」のあとがきでこう述べている。

なぜ彼は「殉教者」となる道を選ばないのだろうか?--と、私は身勝手なことを考えた。無罪を勝ち取るためにはそんな選択肢はあるはずもなく、それは裁判の被告席に立たされている金子被告の心情をあまりに無視した勝手な考えだと思いながらも。

外野がとやかく言うのも気が引けるけど、むしろ金子氏は「Winnyは私の表現」と言い切ってしまった方がよかったような気もする。「著作権侵害を蔓延させる」というのは、口で言っただけならそれは単なる思想の発露であり、憲法21条で保証された権利の範囲内だという主張だ。「技術の進歩」を主張するよりもむしろそちらの方が、より有利な判決が導き出せたのではないだろうか。

みなさんに、問いたい。ソフトウェアの作成および公開は、「表現」なのかそれとも「行為」なのか。

Dan the Free Expressionist


編集部より:今回の記事は,小飼弾氏のブログ404 Blog Not Foundより編集し転載させていただきました。本連載に関するコメントおよびトラックバックは、404 Blog Not Foundでも受け付けております。