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 廃藩置県の本質は,民と税という国民国家の基礎となる二大要件の帰属を,藩から「国」に移すことにほかなりません。明治維新とは,世界史の荒波の中に引きずり込まれた新生日本の,マドルスルー(muddle through)を通した根こそぎの大革命だったのです。

 衰退した幕府ではなく,薩長を軸とした新しきコマンド達が,徹底した上意下達の官僚システムで,一気に変革を成し遂げていったのです。アンシャンレジュームの江戸幕府が中央で実権を握ったままで,藩や辺境を抑えていたら,日本はどうなっていたでしょうか?私は99%植民地化されていたと考えます。我々は明治の先輩先達に感謝しなければなりません。偶然なのか必然なのか?歴史は摩訶不思議です。国家存亡の大危機の時,そんな役割の人間が表舞台に登壇してきました。“神風を信じた日本人と信じ込ませた軍部”もむべなるかな。

 ロシアの不凍港奪取のための南下政策や朝鮮への進出が,日本の直接的な脅威になるという戦略上の懸念もあり,新興国日本が,国力増強を中国大陸に求め,前面に立ちはだかる清およびロシアと衝突するに至り,ここに日清戦争,日露戦争,ついでシベリア出兵,満州事変などの戦争を招来することとなっていきました。

 第二次世界大戦の連合軍最高司令官だったマッカーサーは,朝鮮戦争の戦況を逆転するために“北朝鮮の後背地であり,補給路である中国”への爆撃をトルーマン大統領に求めました。この案は結局却下され,マッカーサーはその後解任されました。しかし,マッカーサーは朝鮮戦争を戦うことによって,日本が明治以降の戦争を戦わざるをえなかった戦略的理由,つまり,朝鮮半島と満州を勢力圏とすることが,日本にとって国防上の死活的利益だったことを悟ったと言われています。

日露戦争の奇跡的勝利が日本を傲慢にした

 日露戦争は日本の国運を賭けた戦争でした。当時,日本の指導部は,この戦争に勝つことによってのみ,国として存続することが可能になると考えていました。もし負けていれば,日本はロシアをはじめとする列強の植民地支配を受け,国は消滅していたかもしれません。

 当時の米国大統領セオドア・ルーズベルトは日本海海戦に言及し,「日本艦隊が勝利を得る可能性は20パーセント。日本艦隊が敗北を喫した折には日本は滅亡の悲運に遭遇するだろう」と記しています。

 203高地の死闘による旅順港制圧,奉天会戦の辛勝,日本海海戦の劇的な勝利を経て,一気に講和に持って行ったのですが,ロシアの底力はこんなものではありません。逆に,小国日本に戦争を継続する余力はありません。講和交渉はいったん暗礁に乗り上げましたが,日本が譲歩。この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し,ロシア側は戦争賠償金には一切応じないという条件で講和条約は成立しました。

 このとき,小村寿太郎全権大使は困難な外交的取引を通じて,辛うじて勝利を勝ち取りました。にもかかわわらず,そんな経緯を知らない国民は,日比谷焼き討ち事件を初め各地で暴動を起こしました。熱狂する大衆やそれを煽るマスコミほど危険なものはありません。彼らがいつも戦争への流れを加速させます。

 しかし講和の労をとり,日本に有利な条約締結に助力を惜しまなかった米国は,日露戦争の終了とほぼ同時に日本の海軍力に脅威を感じ,日本を仮想敵国として位置付け,対日戦争の作戦計画を作成し始めたと言われています。そして第二次世界大戦では,その計画がそのまま実行に移されてしまったのです。

 米国軍人ペリーが軍艦の威圧の下に浦賀に来航した時が,太平洋戦争敗戦に到るまでの一貫したストーリの幕開けでした。江戸幕府パ-ジ後の明治政府の官僚制度による徹底した富国強兵策と日露戦争の勝利が,日本を傲慢にさせました。そして,米国からの挑発にのって始まった太平洋戦争では,原爆を2発まで落とされるなど非戦闘員の大殺戮を経験し,完膚なきまでに叩きのめされてしまいます。

 ちなみに,2007年司馬遼太郎賞を受賞した長谷川毅氏の「暗闘―スターリン,トルーマンと日本降伏」には,ポツダム宣言の対日通告の前日に,広島と九州北部(結果的には長崎)への核爆弾投下が決定されていた,とあります。「ポツダム宣言を日本が拒否したため米国がやむなく原爆投下を決定した」というのは大義名分に過ぎず,米国は戦後の世界秩序構築を自国有利に進めるため,ソ連参戦前にどうしても日本を降伏させる必要があり,そのためにポツダム宣言通告の1日前に原爆投下を決定していた,というのです。