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 みなさんこんにちは。

 ここ最近のマイクロソフトのいろいろな発表にはいろいろ驚かされますね。

 Windowsとは違うとは言え,OSのソースを公開するということは以前からはとても考えられませんし,オフィス系のファイルのフォーマットを公式に公開して,非商用であれば特許料のことは不問にするとか。オープンソースとまったく同じライセンスではありませんが,「マイクロソフトなりのオープンのかたち」を求めた動きのように見えます。これが単なる「方弁」に過ぎないのか,彼等なりのオープン戦略なのかについてはいろいろな見解があると思いますが,最近のマイクロソフトのGoogleに対する対抗意識のことを考えると,後者ではないかと思います。

 さて,これを「戦略」として見た時に,それは受け入れられるべきかどうかという話から始めてみたいと思います。

「オープンソースの哲学」の意味をさらに考えてみる

 前回「オープンソースの哲学」と「フリーソフトウエアの哲学」との違いは「利用者を視野に入れ普及させる」というものだという話をしました。このことについて,さらに考えてみましょう。

 オープンソースが誕生したのは,1998年のはじめです。これがどんな時代かと思い出してみれば,ちょうど「ドットコムバブル」の頃です。つまり,インターネットがコモディディ化し,さらにそれをプラットフォームとしていろいろなビジネスが始まろうとしていた頃です。その頃,廉価にサーバーを調達する方法が,Linux + Apacheという組合わせでした。下手にWindows + IISでサーバーを作るよりはずっと廉価で安全でした。ですから,ちょうどドットコムビジネスに向いた設備を廉価に作るという点で好都合だったわけです。

 その利点を理解していた人達は,この組合せをもっと普及させたいと考えていました。いわゆる「フリーソフトウエア運動」の一貫としての活動でしたが,そればかりではなく,いろいろな人達が参加するようになりました。こうして考えてみると,「オープンソースはネット時代の申し子」とも言えます。どっちかがあってどっちがあるというものではなく,それぞれが相互作用しながらお互いに育って来た。というのが,その前後の時代を知っている人達の認識ではないかと思います。

 これは,それらの「哲学」にも影響を与えています。

 「オープンソース」というのは,個性と哲学を持ったフリーソフトウエアが「大同団結」した姿です。個々のソフトウエアには各々の思想信条哲学といったものが込められているわけですが,「オープンソース」としては「特別に強い哲学がないのが哲学」という形になっています。通常,強い哲学を持ったものはあまりなじまないものですが,オープンソースとしての哲学はそれらの共通集合ですから,この部分に限ればお互いが通じるものがあります。そして,その残りの部分に関しては「それはそれ」ということで,オープンソースとしてまとまった時には,深く立ち入らないのが共通認識になっています。「大同団結」ではありますが,「和せど同せず」なわけです。

 これは,インターネットのそれとよく似ています。

 インターネット上には,様々な国,民族,宗教,思想... の人達が集まっています。その人達はそれぞれの価値感倫理感の下で行動しています。生まれも育ちも違うのですから,それぞれが「正しい」と思うことは,必ずしも一致していません。「リアルワールド」では,それは侵略戦争という形での解決が計られる,つまり同化させることで解決させようとするわけですが,インターネットではそうも行きません。手取り早く平和的な解決は,「和せど同せず」になるわけです。

 両者似たような「哲学」があるわけですが,どっちが先というわけでもなく,おそらくは似たような背景を持ったものなので同じような進化をしたのでしょう。何にせよ,両者が「仲良くはしましょう。違いがあってもそれはそれ」という解決をしたという点は興味深いことです。