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 ここ数日,本格的に梅雨らしくなって来て,朝の散歩ができなくなってしまっています。私はいろいろ考えながら散歩をしているので,朝の散歩をしないということは考える時間がそれだけ減るということです。もちろん考えるだけなら家にいてもできるわけですが,目の前にPCやメモがあると,ついそういったものを頼ってしまい,考えることに集中できなくなってしまいます。また,PCやメモのような「外部記憶」があると,ついそれらを使って複雑なことを考えてしまいます。本来アイディアの類はシンプルでなければいけないので,「外部記憶」は有害なのです。そりゃ「あっても使わない」ことができりゃいいんですが,人間なんて弱いもので。

「人は気にいったものには金を払う」の嘘

 前回から「オープンソースを販売すること」について書いています。前回に一通りのパターンを書いたつもりですが,昔からあると言われていてまったく触れなかったものが一つあります。それは,「優良なソフトウエアは無料で配布されても寄付などが集まる」というものです。古くはGNU manifesto*1にその可能性が指唆されています。確かに使ってみて,それが良いものであれば金を払いたくなります*2。それがうまく循環すれば無料のソフトウエアを作ることで収入を得られるというのは,一見真理なように見えます。

 rms(Richard Stallman)が言っていることに私のような者が反論のようなことを言うのはおこがましいですが,非常に残念なことに「人は気にいったものには金を払う」ということは一種のファンタジーだと言っても過言ではないと思います。そのわかりやすい証拠として,rmsはそんなに金持ちではありません。優れたオープンソース(rmsはフリーソフトウエアと呼びますが)がそのまま収入と結びつくなら,rmsは大富豪になってないとおかしいはずです。確かに昔よりはずっと豊かになったようにも見えますが,大富豪になったという話は聞いたことがありません。

 もちろんrmsはどうもあまり欲のない人らしく,私腹を肥やすよりはFSFがうまく回ったり,そういった運動をすることの方を大事にしているということもありますが,結局のところ収入の絶対量は知れているということです。Linusも学生の頃と比べれば随分私が肥えてるように見えますが,Linuxで富豪になったというわけでもなく,サラリーマンとしての収入が増えただけの結果でしょう。一々実名を挙げてもしょうがないですが,早い話が,優れたフリーソフトウエアやオープンソースを公開するだけで儲かった人はいないと言うことです。

 とは言え,現実に「払えるものなら払いたい」という人が少なからずいます。このかい離はいったいどこから来るのでしょうか?

 一つは,そういった「寄付」は額も小さく一時的なものだからです。例えば,FSFに「10万ドルの寄付をする」というのは,かなり大口の寄付です。でもよく考えてみれば,法人の売上として10万ドルというのは,それ程大きくありません。また,そういった大口の寄付がずっとされ続けるかと言えば,必ずしもそうではありません。「労働対価」というようなことを考えれば,スタッフの給与はそれなりに出さなきゃいけませんし,FSFのスタッフと言えばそれなりのハッカーですから「10万ドル」なんて本当は1年分の給料にもならないはずです。「FSF」でなくて個人であればもっと少なくて済むでしょうが,逆に得られる額ももっと少ないでしょう。

 また多くの場合,人はものを評価する時に「感動」で評価します。つまり,感動が大きければ大きい程評価も高い。ところが,初めて見た時に感動したものでも,それが当たり前の存在になってしまえば,感動も薄くなります。そうすると,だんだん評価も下がってしまいます。ところが実際にお金が必要になるのは,使いものになるバージョンになったあたりからですから,お金が集まる時と必要になる時は一致しません。もちろんいつまでも続きません。

 また,支払う側の経済力という問題もあります。

 例えば,Linuxのディストリビューションに含まれるソフトウエアはどれくらいあるでしょうか? それらに対して「気に入らない」と思うことは,大きなアプリケーションならあるでしょうが,小物ではあまりありません。つまり,「気にいったもの」は大量にあるわけです。作者単位でまとめて払えばいいという気もしますが,それだけでも大変です。また,関係者が1人ではないソフトウエアも膨大にあります。そうなると,「誰にどれだけ」払うのが妥当かという問題もあります。つまり,正当に評価して正当に分配しようとすると,分配の方法で破綻するか財布が破綻するのです。

 例えば,perlは素晴しいソフトウエアです。これに異論のある人は少ないでしょう。ではその人達がLarry Wallに寄付,あるいは「感謝の心づけ」をするでしょうか? 皆無とは言いませんが,評価する人と比較すれば圧倒的に少数でしょう。perlを意識して使っている人なら「するか,しないか」という判断だけですが,perlのようにあちこちで使われているソフトウエアだと,知らずに使っていることは少なくありません。と言うか,いろんなコマンドがどんな言語で書かれているかを意識する人は,むしろ少数だと言ってもいい。そういった人達はLarryに寄付をすることは絶対にないでしょう。素晴しいことに異論がなくても,こういったことが起きるわけです。いや,むしろ良質のソフトウエアであればあるだけ,存在が意識されなかったりします。デスクトップに常駐してしまっているソフトウエアなら,あるいは意識されるでしょうけど。

 というようなことを考えると,「人は気にいったものには金を払う」ということはファンタジーの一種だと言えます。百歩譲ってファンタジーでなかったにしても,法人が商業的に基盤とするだけの売上を得ることができる程には,金は払ってもらえません。つまり,ビジネスにはなりえないのです。これが一連の話からこのモデルを除外している理由です。

*1 GNU宣言(GNU Manifesto 1993年改訂)
- 日本語版 -http://www.gnu.org/japan/manifesto-1993j-plain.html

*2 私の身近な例だと「MikuMiku Dance」の字幕に「金払いたい」というのがいっぱいあることを見ることができます