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 記者は、海外のITベンダーのマネジメント層や情報システム担当者などにインタビューする機会が少なくない。そこで常々感じるのは、「テクノロジーによって仕組みを変え、社会や企業に貢献しよう」という彼らの気概である。逆に国内に目を向ければ、「日本人は、テクノロジーをあまり信じておらず、むしろ嫌いなのでは」とさえ思うことがある。みなさんは、どうだろうか?

 日本人がテクノロジーを避けていると思わせる例の一つが「クールビズ」。日本では28度の空調温度設定が広がり、ネクタイを外していても誰も「失礼な」とは思わなくなった。実際、ネクタイを外してからは「ずっと、このままでいいんじゃないか」と思うほど楽である。しかし、その取り組み姿勢は、“がまん”だ。

 これに対し、米国などはどうだろう。以前に、ハワイで開かれたグリーンIT関連のカンファレンスに出席した同僚記者が、「会場はクーラーがギンギンにきいていて寒いくらい。エコを議論しているのに…」と言っていたように、“がまん”はしない。京都議定書にサインをしなかったブッシュ前大統領が当時、「米国はテクノロジーで地球温暖化問題に貢献できる」と宣言したように、テクノロジーで解決しようと考える。

 もちろん、クールビズは温暖化を防ぐ大事な取り組みだし、温暖化対策に貢献できる製品は日本企業も数多く開発している。しかし、テクノロジーの有効性を論理的に追求し、温暖化に対処する仕組みを作り上げようとする米国などとは対照的に、日本人は“がまん”に象徴される感情の方に意識が向かいがちだ。

 こんな姿勢の違いが、インターネットやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)といった新しいテクノロジーを導入する速度の差や、新たなサービスやビジネスモデルを生み出せるかどうかに、表れているように思う。それは、コンセプトやビジョンの有無と言ってもよいかもしれない(関連記事:ソーシャルネットワークが技術者をより革新的にする)。

「仕組みは与えられるもの」で十分か?

 一方で記者は、「日本人は本当はテクノロジーが大好きなのでは」と思うこともある。メールはもとよりゲームをしたり音楽を聴いたりできる携帯電話、電子マネー対応の自動販売機、駅の自動改札ゲート、ATM(現金自動預け払い機)の機能強化などなど、機械化・自動化の波はとどまるところを知らない。

 なんでもそろうコンビニエンスストアや、移動時間を計算できる交通機関なども、テクノロジーのなせる技だ。これほどまでテクノロジーに依存している社会は珍しい。銀行のオンライン化では当初、「まずはコンピュータ先進国の視察から」と調査に出向いたものの、どこにもそんなシステムはなかったという冗談のような本当の話もある。空気や水、電気やガスと同じくらい当たり前のものとして、テクノロジーを日本人は受け入れているとも言えるわけだ。

 ただ、これらはいずれもアプリケーションである。なぜ携帯でメールができるのか、電車の運賃はいつ計算されているのかといった裏側の仕組みは、ほとんどの利用者が意識していないだろう。「便利だし、それでいいじゃなか」といえばそうなのだが、いずれも「誰かが用意してくれた仕組み」である。誰かが用意した仕組みを使うだけの存在である限り、自らが欲して作り上げた社会とは言い難い。昨今の政治・経済上の問題も、有権者が種々の仕組みに無関心でいすぎた結果の表れではないだろうか。

 こんな話を、グリッド技術を核にグループウエアなどの無償オンラインサービスを展開するブランドダイアログの稲葉雄一社長兼CEOに話したところ、「目に見えないということで実感できないようだ。だから我々はグリッド技術を表に出さず、アプリケーションで訴求する」との答えが返ってきた(関連記事:三重県津市教育委員会、グリッド型情報共有基盤を採用)。