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 ソチ冬季五輪のノルディックスキー複合個人ノーマルヒルで渡部暁斗選手は銀メダルを獲得、この種目で20年ぶりのメダルという快挙を成し遂げた。渡部選手は双子の兄、健司が指導している。

 健司は1992年、アルベールビル五輪のノルディック複合団体で金メダルを獲得し、表彰台の頂点に立った。冬季五輪で日本選手が金メダルを手にしたのは、72年の札幌五輪で笠谷幸生選手が優勝して以来、20年ぶりのことだった。

兄は4位、私は6位、兄弟そろって入賞

元スキーノルディック複合選手 荻原 次晴 氏
元スキーノルディック複合選手 荻原 次晴 氏

 健司に遅れて6年、私は長野オリンピックに出場し、ようやく念願を叶えた。個人では健司は4位、私は6位と兄弟そろって入賞を果たすこともできた。

 欧州では、ノルディックスキー複合の王者をKing of Ski(キング・オブ・スキー)と呼ぶが、アルベールビル五輪で健司が金メダルを獲得するまで、日本ではほとんど知られていないスポーツ。その証拠に健司がアルベール五輪に出発する際、成田空港に取材に来た記者は1人もいなかった。

 健司が金メダルを獲得すると、この状況は一変する。五輪から帰国した健司は大勢の人の歓声に包まれ、全キー局の著名なアナウンサーが成田空港に取材に駆け付けていた。健司は様々なテレビ番組に出演し、一躍、時の人になった。

 日本中が健司の金メダルに興奮する中で、私だけは複雑な思いだった。双子だから、以前からよく健司と間違われた。当時、大学生だった私は街に出ると声をかけられては健司と間違われ、サインや写真撮影を求められた。テレビ局のインタビュアーから「荻原健司さん、おめでとうございます」とマイクを向けられたこともある。その都度、「いえ、僕は弟のほうなんですけど」と説明しても、理解を示してくれる人ばかりではない。中には、「本当は荻原健司なんだろ。有名になったからっていい気になるな」と憮然と立ち去る人もいた。

 健司に間違われ続け、外を出歩くことも嫌になった。悶々とした日々を過ごし、健司には「何で金メダルなんか取ったんだ!」と八つ当たりし、母にも「勝手に双子に産むな」と毒づいたこともあった。

2人そろって表彰台に立つ、競技者として活躍したい

 そんな私にある考えが浮かんだ。「健司に間違われないようにするには、2人そろって表彰台に立てばいい」。健司の双子の弟としてではなく、ノルディックスキー選手、荻原次晴として世界中の人に知ってもらおう。競技者として上位を目指したいという思いが芽生え始めた。

 アスリートとして世界のトップレベルに達するのは決して容易ではないが、それしか私が進む道はなかった。高校時代までは健司と同等の成績を残していたが、大学入学後はトレーニングに熱心ではなく、スキーに集中していなかった。ブランクがある状態から日本代表入りは並大抵のことではない。

 残念ながら94年のリレハンメル五輪への出場は叶わなかった。この五輪でも健司は金メダルを獲得した。健司と自分の距離を感じた。それでも「やると決めた以上は、やってやる。健司に絶対についていくんだ」という思いが強かった。次の五輪開催地は日本の長野。出場すれば、地元日本で健司と競い合える。

 地道な努力の甲斐あって、95年にチェコのリベレツで開かれたワールドカップで私たち兄弟は社会人になって初めてワンツー・フィニッシュを経験した。クロスカントリーではデッドヒートを繰り広げ、遅れてスタートした私は健司を追走し、いったん抜き去った。しかし、終盤で再び抜き返され、健司が優勝し、私は2位。ようやく健司の弟としての次晴ではなく、1人のアスリートとしての荻原次晴を確立できたと思った。

 その後、2年間は調子が上がらず、大会に出場しても下位の成績で終わることが多かったが、長野五輪には幸い出場できた。

 試合当日、スキージャンプのスタート地点を下見すると、会場には約4万人の観客と、観客席に入れない大勢の人が白馬村の遠くの畑にまで広がっている光景が目に飛び込んできた。

顔は真っ白、唇は真っ青、人生で最も緊張した瞬間

 時速90キロで滑走するジャンプは、踏み切るタイミングがほんの少し狂うと飛距離を大きく落とす。そうなると、「やっぱり次晴じゃダメなんだ」と思われるだろう。私は恐怖心に苛まれていた。トイレの鏡に映った自分を見ると、顔は真っ白、唇は真っ青。人生で最も緊張した瞬間だった。

 そんな自分にこう言い聞かせた。「おまえ、今まで何のためにやってきたんだ。緊張している場合じゃないだろ。今日がお前の勝負の日だろ。死んでもいいじゃねーか。死ぬ気でいけ!」。

 競技中のことは何も覚えていない。2本目のジャンプが終わり、ふと電光掲示板を見ると上から3番目に私の名前があった。クロスカントリースキーでは、健司とデッドヒートを演じた。メダルには手が届かなかったが、兄弟そろって入賞できた。観客席からは「健司」だけでなく「次晴」という声援も同じくらい聞こえた。

 長野五輪が終わると、気持ちに余裕ができたのだろうか、「健司が金メダルを手にしなければ、今の自分はなかった」と思うようになった。すぐに健司のところに出向き、礼を言った。母にも「俺を産んでくれてありがとう。双子に産んでくれてありがとう」と感謝の気持ちを伝えられた。

 今、私はスポーツキャスターとしてセカンドキャリアを歩んでいる。ウインタースポーツの面白さを1人でも多くの方に伝えていきたい。