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 前2回は、最近の大阪の社会・経済指標の回復が著しいこと、背景に地方政党「大阪維新の会」の存在があること、そして大阪府と大阪市の二重行政が都市の衰退の元凶であることを述べた。今回は視点を変え、最近の改革の動きが実は人工的な新興都市のDNAに由来する本能的な動きであることを見ていきたい。

政治に翻弄される商都の危うさ

 大阪は「商都」と呼ばれる。江戸時代、天下の台所と言われたことに由来するようだ。だが都市としての歴史はもっと古く、しかも繁栄と衰退を繰り返す波乱万丈の歴史をたどってきた。都市としての成り立ちも人工的だ。大化の改新後の652年に(前期)難波宮が開かれたことに始まる。革新的政治が行われたようだが、火災等もあってやがて都は飛鳥に移る。だが奈良時代には、再び副都(後期難波宮)となった。当時の大阪は渡来人との交流の拠点、中国・朝鮮との交易の要衝だった。しかし、その後、大阪は再び衰退する。

 だが、豊臣秀吉が大阪の地理的可能性に着目し、1583年に大阪城を築城する。各地から商人を集め、城下を新開地として開発し、徳川幕府にも受け継がれ繁栄した。だが明治に入ると再び衰退する。それから苦労して工業都市に脱皮し、昭和初期には東京を上回る都市になった。だが、空襲で再び荒廃し、戦後の復興を経て盛り返したが大阪万博の1970年ごろがピークだった。その後はずっと衰退の途上にあり、最近やっと底入れしつつある。