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 多様な分野で名を轟かせた先人の多くは、また、アイデア発想の達人でもあった。今回のシリーズでは著名人が活用したアイデア発想テクニックを紹介したい。最初はこの名を知らぬ人などいないに違いない、あのレオナルド・ダ・ヴィンチから始めよう。

経験を最重視したダ・ヴィンチの態度

図1●レオナルド・ダ・ヴィンチ
図1●レオナルド・ダ・ヴィンチ
(出典:Wikipedia)
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 レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年4月、フィレンツェ郊外のヴィンチ村に、公証人の父セル・ピエロと母カテリーナの間に生まれた。父母は夫婦ではなく、したがってレオナルドは私生児であった。

 17歳あるいは18歳の頃、父親の友人である金工兼画家アンドレア・デル・ヴェロッキの工房に弟子入りする。その当時すでに絵画の腕前は師ヴェロッキをしのぐほどだったといわれる。

 徒弟として修業したあとフィレンツェ画家組合に名を連ね、やがて師から独立したダ・ヴィンチは自前の工房を立ち上げる。30歳の時、ミラノの支配者イル・モーロの宮廷に入り、彫刻や絵画の制作のほか、武器の製造や建築、運河の建造、さらには都市計画までにも手を染める。このミラノ時代にダ・ヴィンチは「最後の晩餐」を完成させ、また、この時期すでにかの有名な「人が飛ぶための装置」、つまり飛行機の開発を行っている。

 ミラノがフランスの手に落ちると、ダ・ヴィンチは18年間仕えたモーロのもとを去り、以後、ローマ法王の庶子チェーザレ・ボルジア、フランス王ルイ12世、ジュリアーノ・デ・メディチ、フランス王フランソワ1世らに招かれ、建築技師や宮廷画家などとして仕える。

 チェーザレの下にあった時、のちに『君主論』で著名になるニッコロ・マキャベリと交流したようだ。また、名作「モナ・リザ」はジュリアーノ・デ・メディチの擁護の下にあった時に制作されている。

 フランソワ1世に招かれてフランスのアンボワーズ近郊にあるクルーの館(現クロ・リュセ城)で暮らしていたダ・ヴィンチは、1519年に生涯を閉じる。享年67歳であった。

 レオナルド・ダ・ヴィンチは絵画や彫刻のみならず、機械や天文、建築、測量、動植物と並々ならぬ博識を誇った。この膨大な知識の背景にあったのは、徹底した経験を尊重する態度である。ダ・ヴィンチは手記にこう書く。

智慧は経験の娘である。
  ○
この問題について一般法則を立てるまえに、二度三度それを試験してその試験が同一結果を生ずるか否かを観察せよ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(下)』(1958年、岩波書店)

 この言葉にあるように、徹底して経験を重視し、経験から得た法則が正しいか厳しく検証したダ・ヴィンチは、思想的にもカトリック教会の神学を素直に受け入れない立場を取った。それは「神や霊魂などの存在を強く疑わねばならない」というダ・ヴィンチの強烈な言葉に端的に表れている。そのためダ・ヴィンチを無神論者として警戒する人も多かった。この意味でダ・ヴィンチはイタリア・ルネサンスを代表する1人だったと言える。

 また、ダ・ヴィンチのとった経験主義は、近現代にあっては、過去の哲学が築き上げた抽象的体系を拒否して、人間が存在してここにあるといった具体的な経験を重視する実存主義哲学や、誰も信頼せず自分自身の目で見る態度を最重視する現象学との接点が見られる。

 いわば中世に生まれた近代人がレオナルド・ダ・ヴィンチだったと言えるのかもしれない。否、飛行機の開発に夢中になるなどは、近代人をも越えていた人なのかもしれない。