PR

 「文系SEの一期生」と言われる富士通元社長の秋草直之氏が6月18日、亡くなった。1961年に富士通に入社した同氏は、一貫してシステム構築事業に携わり、今日の収益モデルの構築に深く関わった。モデルの賞味期限が近づく中での秋草氏の死去は、富士通に新しいビジネスモデルの創出を求めているように思えた。

IBM産業スパイ事件で危機に

 秋草氏がシステム事業を担当する中で、事業に大きな影響を及ぼしたのは、1982年のIBM産業スパイ事件だろう。メインフレームOSをめぐる知的財産権紛争で、日本のコンピュータメーカーは窮地に立たされた。そうした状況で、ソフトの知的財産権などの解決に向けて富士通と米IBMは秘密裏に協定を結んだものの、その後IBMが「協定違反がある」とし、米国仲裁協会(AAA)に仲裁を申し立てる。その翌年の1986年にシステム本部長代理、AAAの最終裁定が出た1988年に取締役に就いた秋草氏は、どんなことを考えていたのだろう。

 明らかなのは、秋草氏が社長になる1998年までの10年間、富士通はハードからサービスへとシフトしようとした時期だったということだ。布石として、1970年後半から80年前半にかけて全国各地にSE子会社を相次いで設立し、地域の優秀な人材を集めた。そのSE集団を活用して、サービス化を推し進める。システム構築請け負いでの事業拡大には、SE増員は必要だったのだろう。

 そんな人月ビジネスを展開する中で、秋草氏はソリューションへ舵を切ろうとした。1992年に総合サービス体系PROPOSEを導入し、これにそってサービス・商品を開発していった。さらに、インターネット時代の到来を予測し、1999年に「Everything on the Internet」という事業戦略も打ち出した。そして、社長就任2年後の2000年度(2001年3月期)に、売上高約5兆5000億円、営業利益2400億円超と過去最高を記録する。

 ところが、システム構築事業が黒字化しそうになり、ソリューションの強化が後回しになった。そして2001年度に営業赤字に転落し、「富士通はどうなるのか」と、将来を心配する声が表面化する。富士通の社長は、秋草氏が2003年に社長を退任した後、黒川博昭氏、野副州旦氏、間塚道義氏、山本正已氏、そして現社長の田中達也氏へと交代するが、2000年度の業績をいまだに超えられない。

この記事は会員登録で続きをご覧いただけます

日経クロステック登録会員になると…

新着が分かるメールマガジンが届く
キーワード登録、連載フォローが便利

さらに、有料会員に申し込むとすべての記事が読み放題に!
日経電子版セット今なら2カ月無料