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 独立から統括へ、多国籍企業からグローバル企業へと、日本IBMの経営に影響を与えてきたAP(旧A/PG :アジア/太平洋グループ)が、年内にも「東京から上海に移る」という噂がIBM社内や前“IBMer”たちの耳目を集めている。だがこの話は、以下の経緯を知った上でないとなかなか肝をつかめない。

 1984年7月。日本IBMは都内のホテルで幹部社員を集め緊急ミーティングを開いた。目的はある重要人物との初顔合わせのためである。当時営業所長だった前IBMerは、その印象的な催しを鮮明に記憶していた。まず舞台が暗くなり、正面の幕に1枚のスライドが映された。戦記物のテレビや映画館のニュースで覚えていた1カットで、当時で39年前、今から実に60年前も前の映像だ。「レーバンのサングラスをかけ、コーンパイプをくゆらせ、タラップを降り立った1 人の米国人。彼は巨大なアメリカを背負って日本を改革するためにやってきた」。

 すると突然、「ミスター・コンレイデス氏を紹介します」と司会者の声。拍手に迎えられ44歳の米IBM副社長、ジョージ・コンレイデス氏がスライドの映像を背に登場した。「本気か、ジョークか」と、周りがざわついたものである。

 コンレイデス氏は、その年の4 月に米IBMの海外事業再編によって生まれた世界の人口の3分の2の地域を統括する新組織「A/PG」のグループ・エグゼクティブ、いわば統合参謀本部長に就任。6月に200人を超す部下と共に東京・芝公園の第39森ビルに乗り込んできた。日本IBMの椎名武雄社長(現最高顧問)は、「占領軍が来た」という業界の揶揄に対し、「親を1万キロのかなたから1000歩に引き寄せた」と反駁した話が、今でも語りぐさになっている。力をつけてきたJCM(日本メーカー)に対し、「即断即決で、しかもIBMの総力挙げてねじ伏せる」という意味を込めていた。

 このA/PGの東京への設置は、IBMを多国籍企業からグローバルカンパニーに変えた象徴的な出来事でもある。椎名氏は、基礎研究所や製品開発研究所、大型コンピュータ工場を日本に引っ張り、戦略、マーケティング、販売・サポートを含め、ほぼ日本1 国でIBMビジネスが完結する構図を完成させた。日本IBM という独立したコンピュータ会社を設立したようなものだ。だから、A/PGの出現は椎名氏にとって嬉しさ3分の1というのが本音であったはずである。

 現地の独立運営を認めるのが多国籍なら、グローバル企業とは「適材適所」の経営と言える。まずA/PGは日本IBMの戦略、マーケティング機能、つまり自治権を薄め、今では製造拠点もなくなった。ルイス・ガースナー氏に至っては、営業やサービスなど、日本IBM の縦組織を横で切り、産業別に米本社が集中統括する仕組みに変えた。それが変化の激しいIT環境に適応するためのIBM 流スピード経営。中期計画は今や90日ともいわれる。

 AP本社の上海移転について、日本IBMの広報は「それはない」と否定する。しかし、中国聯想集団(レノボグループ)にパソコン事業を売却し、中国という巨大市場へパイプをつないだ今、上海への移転は真実味を帯びてくる。中国に対するIBMの本気を示すことにもなる、と解説する前IBMerもいるし、本社移転は中国の要請という見方もある。

 重要なのは日本IBMの位置づけだが、「APの管轄下から離れ、米IBM直轄になる」というシナリオを描く向きが大勢だ。これは日本IBMの地位を引き上げる半面、管理が強まり、顧客にとっては、例えば価格面できつい場面が出てくるかもしれない。ソリューションでは、グローバルサービスとの連携が強まり、期待できるとの見方もある。

 日本IBMの次期社長が40代の米国人となる可能性も否定できない。これは社内を一気に若返らせるテコとなるはずだ。調査会社幹部は「今の小泉政権はブッシュ直轄のようなもの。日本IBMに適用されても不思議ではない」と話す。

(北川 賢一=主任編集委員)