通信機器が持つ論理的な性質の一つに,移動透過性と呼ばれる性質がある。これは,機器が移動しても使用中のセッションを維持できたり,相手の物理的な位置にかかわらず呼び出せるといった,いわば通信ノードの移動を気にすることなく通信できるという性質である。

 現在の携帯電話はこの性質を持っている。相手がどの基地局のエリアにいるかといったことは気にしなくて済むし,通話中に自分や相手が別の基地局エリアに移動しても通話が途切れることはない。私はこの移動透過性をIP層で保証する技術を研究している。

 実は移動透過性のための技術はすでにある。RFCになっているMobile IPv4,現在議論中であるMobile IPv6, そして我々が新たに提案しているLIN6といったプロトコルなどがそれだ。ところがこれらの移動透過性を保証するプロトコルは,贔屓目にみてもまったく流行っていない。IPv6 用の Mobile IPv6 や LIN6はまだdraftであるから仕方ないが,標準化されているMobile IPv4も流行っていないのはなぜだろうか。

 端的に言えば,「使うチャンスがない」ということだろう。インターネットは広く普及したと言われるが,どこでもインターネットを利用できるというわけではない。オフィスでも会議室ではネットワークを利用できないことが多いし,公共の場所でも気軽にインターネットに接続できる場所はあまりない。結局,携帯電話やPHSを持ち歩き,それで接続するしかない。家に帰ってみてもやはりダイアルアップ接続で明示的にインターネットにつなぐのが多数派という現状だ。このようにつながる場所が少ないと,移動するときは一度接切断し,どこか接続できるところにいってから改めてつなぎ直すという使い方になる。こうした間欠接続の環境では,移動透過性のメリットはあまりない。

 一方で,移動透過性を必要とするアプリケーションもない。インターネット・ユーザーの中にはwebとmail以外は使ったことがないという人がかなりいるようだ。これらのアプリケーションは,通常,通信相手は固定されたサーバーであり,セッションの時間も短い。つまり,移動透過性が求められないアプリケーションといえる。

 もう一つ,移動透過性の普及を阻害しているものに,IPv4インターネットで広く利用されているアドレス変換技術「NAT」の存在がある。NATを使うノードに対して通信を開始することは非常に難しいからだ。NATの存在を無視できない現在のIPv4は,インターネットの重要な性質であった「通信の双方向性」,すなわちどちらからでも通信を始められるという性質を失っている。この通信の双方向性の喪失は,インターネットから様々なアプリケーションの可能性を奪い,インターネットの利用に対する自由な発想と応用を阻害していると思う。

 ではIPv6ではどうだろう。IPv6がもたらす恩恵の一つに,「通信の双方向性の復活」がある。NATを必要とするIPv4では双方向性の実現は複雑なものとなるが,IPv6ではそのようなことはない。単純に相手の現在のアドレスさえわかればよい。

 ネットワーク・インフラも変化が訪れようとしている。一つはADSLや光ファイバによる安価な常時接続の普及だ。家庭やSOHOは当然のことながら,いろいろな場所にネットワークが引ける可能性が見えてきた。そしてもう一つはIEEE 802.11bに代表される無線リンクの普及だ。有線からの解放は,単にネットワークへの接続を容易にするだけでなく,機会を増やす。

 例えばポケットの中から出さなくとも,PDAをネットワークに接続して必要な情報をやり取りできる。部屋でも,廊下でも,道路でも,あるいはコーヒーショップでも--。実験レベルではこのようなサービスはすでにある。インターネットに接続できる“移動先”は,これからどんどん増えていくだろう。

 こうなると移動透過性の必要性が高まってくる。真っ先に思いつくのはVoIP による携帯電話だ。携帯電話会社はすでに,オールIPの電話を目指して真剣に研究開発に取り組み始めている。オールIPなので,そこで運ぶものを声にこだわる必要はない。テキスト,静止画,動画,データ,何でも交換できる。

 車をインターネットにつなごうという動きもある。携帯電話や次世代携帯電話だけでなく,駐車場においた無線LANや各種の路車間通信機能もIPを運ぶデータリンクに使える。このようなときも移動透過性があれば現在の位置や利用しているデータリンクをまったく意識することなく,いつでもどこからでも車と情報をやり取りできる。車に乗る前にエアコンのスイッチを入れることができるようになるかもしれない。いま車があるのは会社の駐車場なのか,レストランなのか,自宅なのかは気にとめなくていい。

 他にもいろいろなアプリケーションが考えられるはずだ。人が移動する生き物である以上,人の使う機器も移動から逃れることはできない。これから様々な移動する機器がインターネットに接続されるようになるだろう。移動透過性保証プロトコルの真価が問われるのはこれからだ。そう私は思う。



Mobile IPv4
 IETFで標準化されたIPv4で移動透過性を保証するためのプロトコル。RFC2002で規定されている。各ノードは移動しても変化しないIPアドレス(ホーム・アドレスと呼ばれる)を使用する。移動しているノードあてのパケットは,ホーム・エージェントと呼ばれるノードが転送する。
Mobile IPv6
 現在IETFで議論されているIPv6で移動透過性を保証するためのプロトコル。基本的にMobile IPv4の考え方を継承しているが,経路最適化などいくつかの新機能を盛り込んでいる。現在のステータスはinternet draftである。
LIN6
筆者らが提案しているIPv6で移動透過性を保証するためのプロトコル。Mobile IPv6に比べてホーム・エージェントが必要ないなど,いくつかのアドバンテージがある。詳細はhttp://www.lin6.net/ を参照。
NAT
 Network Address Translatorの略。プライベート・アドレスを使用するノードと,グローバル・アドレスを使用するインターネット上のノードが通信するために広く使われているアドレス変換技術。また,NATの発展技術として,複数のマシンがひとつのグローバル・アドレスを同時に独立に使えるように,ポート番号でマシンを識別するNAPTも広く普及している。NAPTは,Linuxでの実装名から「IP Masquerade」と呼ばれることもある。
車をインターネットにつなごうという動きもある
 例えばWIDEプロジェクトが中心となって進めているInternetCARプロジェクトがある。このプロジェクトでは,車からインターネットを利用できるようにするということではなく,車自体をインターネット上のノードとしてとらえている。アプリケーションの幅はとても広いと考えられている。例えば車から車速情報と位置情報を発信して,それを集約すれば,ほぼリアルタイムの渋滞マップを作ることができる。詳細は,http://www.sfc.wide.ad.jp/InternetCAR/ を参照。

石山 政浩
研究活動は,Moblie IPv4及びIPsecの実装,IPv6における移動透過保証方式の検討,IETFへの標準化提案など。ネットワーク・レイヤーを中心としたモバイル・コンピューティング技術に興味がある。