技術進歩の早いIT産業で,将来の事業展開を見越して人材を確保することは容易ではない。しかし手をこまねいている会社は脱落するだけだ。ウイルス対策ソフトで知られるトレンドマイクロは将来必要な人材像を定義し,現状と比較した時の人材の不足分をどうやって補うか,そのためにどのような教育研修を実施すべきか――を明確にすることにより,全社規模で戦略的な人材育成を進めようとしている。人材育成のための枠組みを「eCampus」と呼び,現在300を超す研修コースを実施している。約半数がeラーニングで,しかも10社ものベンダーから教材を集めてきた。eラーニングは時間の制約を受けることが少なく,受講者管理がしやすいことなど総合的な人材育成計画に向いていると判断した。

トレンドマイクロのeラーニング導入状況

教育内容すべての研修項目
対象者全社員
社内研修におけるeラーニングの位置付け自己研修用コースの大半をeラーニングで実施
eラーニング導入のねらい受講時間の制約がなく,受講者管理がしやすい
eラーニング導入の効果エンジニア部門で技術資格取得者が増加
受講者への強制力カフェテリア方式で社員が学習計画を立てマネージャが承認
研修費用全社の売上高の5%未満
インセンティブ資格により月に定額の手当て。MCSEで2万円
コンテンツ・ベンダー10社+自社(自社の資格試験)
システム・ベンダーウィルソン・ラーニングワールドワイド

●1人年間15万円の範囲で300を越すコースから必要科目を選択

 eCampusはエンジニアリングとマネジメント・コミュニケーション,ビジネススキル・知識,英語の各分野の学習コースから構成される。セキュリティ関連ソフトの開発という事業の性格から,アプリケーション開発,ネットワーク,セキュリティ,パソコンOSなどエンジニアリング分野のコースが大半を占める。大手ベンダーなどの技術資格を取得するためのコースも手厚い。

 コース選択の方法はカフェテリア・ポイント方式を基本にしており,社員は与えられたポイントの範囲でコースを選択する。社員に与えられるカフェテリア・ポイントは年間1人あたり15万円としている。さらに,部門ごとに独自の必修科目などを決め,カフェテリアポイントの補助をして,部門で必要と判断したコースの学習に部員を誘導することも可能だ。

 社員は自分のスキルを高めるために必要なコースは何かを判断してコース・カタログから受講したいコースを決め,それに基づく学習計画をマネージャに提出する。マネージャは部門の中での人材育成計画に照らし合わせて学習計画の内容をチェックする。部下が選択したコースや学習計画の修正をマネージャが求めることもある。こうして上司の承認を得て学習を進めることになる。

●3カ月ごとに事業部長クラスでコース見直し,新技術をキャッチアップ

 eCampusは学習者の進捗状況を一覧表にして画面に表示する機能を備えている。マネージャはマネージャ用のページで部門全体,及び個々の社員の進捗状況などを閲覧できる。また,学習計画に比べ学習が進んでいるか遅れているかが一目で分かるようになっており,遅れている人には研修事務局からメールなどで学習のペースを上げるように促す。

 学習者にはコース修了時に学習内容に対する意見などをアンケートで答えることを義務付けている。一方,部門のマネージャからは3カ月ごとにコースの内容に対するアドバイスを受ける。受講者,マネージャの意見をもとにeCampusのコースの入れ替えなどを行う。こうして,eCampusによる教育研修の内容が技術の進歩に遅れないように常に更新される仕組みだ。

●3つの段階に分け計画推進,運営はコンサル会社まかせ

 eCampusはトレンドマイクロの将来の事業展開を見越して,必要な人材を育てるための全社規模の教育研修の枠組みだが,一人一人の社員のための教育研修プログラムを提示できるようにするには段階を踏まなければならなかった。最初はeラーニングでの学習に必要なLMS(Learning Management System)の構築を含めて教育メニューを準備する段階。ECampusのLMSは教育研修会社のウイルソン・ラーニング ワールドワイドのシステムを採用し,2001年1月に約200の学習コースでスタートした。

 この段階では,部門ごとに必要なコースメニュー作りまでを実現した。学習すべきコースは部門ごとに異なるので,部門のマネージャは部門で必要とする学習内容に沿って,全コースメニューから選択し,部員にメニューを提示した。

 次の段階は継続的に学習を進めるためのサポート機能を充実することと,学習効果を測定し定量的に把握することだった。学習効果の測定は受講者の満足度,修了テストによる評価が一般的だが,経営側からは教育研修が事業の収益にどのように貢献したかを定量的に把握できないかといった要請がある。こうした要請にこたえる評価方法を現在検討中だ。

 さらに,第3段階は個々の社員の現在の能力を評価すると同時に,将来やりたい仕事と会社がやってほしい仕事を明確にし,将来に向かって必要な能力を修得するための学習メニューを個々の社員ごとに示すことできるようにすることだ。そのため,2002年末から社員を対象にした聞き取り=キャリア・カウンセリングを予定している。

 このように戦略的な人材育成構想をトレンドマイクロ社内で企画し実行しているのは人事研修部の担当者1人だけだ。担当者1人で約1000人のトレンドマイクロ社員に向けて一人一人異なるニーズにこたえる教育研修を実施することなど理論的には不可能だ。それを可能にしたのは,LMSを提供したウイルソン・ラーニング ワールドワイドにeCampusの運営を全面的にアウトソーシングしたことだった。

 教育研修会社にアウトソーシングすることによって,トレンドマイクロは人材育成ノウハウを取り込み,人材開発のスピードを上げることができた。特にeラーニングの導入は,システムやeラーニング教材についての広範な知識が必要であり,外部の専門家に頼らざるをえなかった。さらに教育研修担当者の人件費を最小限に抑える効果もあった。

●目標を設定し,計画的に学習する仕組みにより“燃え尽き症候群”を予防

 トレンドマイクロがeCampusを推進してきた根底には,“人材は固定資産ではなく流動資産”という考え方がある。社員はたまたま本人の意思と会社のニーズがマッチしているから現在の職場で働いているのであって,マッチしなくなれば去ってゆくと考える。

 そこで社員を確保するには,社員の意思と会社のニーズの乖離が大きくならないようにしておく必要がある。特にIT企業の場合,いかに多くの優秀な技術社員を確保できるかが企業の死活にかかわるといってよいだろう。

 社内で実績をあげているからといって,その社員が現在の仕事に満足しているとは限らない。仕事は満足していないが能力があるから実績が上がっているだけというケースもありうる。そういう社員はある段階で意欲喪失状態に陥ることがあるという。いわゆる“燃え尽き症候群”だ。そういう社員はいずれ他にやりがいのある仕事を見つけて会社を去ってしまう。

 「会社としてどうしても確保しておきたい社員をつなぎとめておくには,社員の意思を会社のニーズに近づけるような仕掛けをしておくことが必要だ」――。eCampusを導入した背景にはこうした人材確保のねらいがあった。eCampusの実施にあたり,学習者をサポートし,しっかり管理することのできるeラーニングの仕組みを評価し導入を進めた。eラーニングは急速に社内に浸透してきており,特に技術資格系のコースでeラーニングの受講者が増え,資格取得者の増加につながっている。現時点ではeCampusで学習する社員の意思と会社のニーズはうまくの同期が取れているようだ。

松本庸史=編集委員室主席編集委員