PR

 「彼は将来,この研究によって必ずノーベル賞を取る」――ベル研究所(米Lucent TechnologiesのBell Labs)の新進科学者,Hendrik Schon氏(32歳)が有機物質の電気特性に関する一連の論文を発表した時,世界の物理学会は諸手を挙げて,新しいスターの誕生を祝った。

 彼が選び,自ら実現可能性を証明した(かに見えた)数々の実験テーマは,将来のIT産業の屋台骨を支える,極めて基幹的な技術を網羅していた。中でも注目を浴びたのは,昨年秋に発表された「分子トランジスタ」の論文だった。

発表当初は世界中の科学者の注目を集めたが・・・

 分子サイズのトランジスタは,既存の半導体技術の延長線上に考えられる,最小のデバイスである。これより小さい領域に踏み込もうとすれば,「量子デバイス」という全く新しい原理に基づく技術開発が必要となり,実用化は遠い将来のこととなる。従って分子トランジスタは次世代の集積技術として,最も現実的な期待を担っているのだ。

 Schon氏は昨年10月,同僚の科学者20人と共同で,「分子レベルのトランジスタの作成に成功した」と発表した(関連記事1関連記事2)。

 世界最初の成功を記した同論文は,当然ながら世界中の科学者の注目を浴び,追試実験が行われた。しかし一流の科学者たちが何度挑戦しても,Schon氏らが発表した実験結果は確認できなかった(同時期にハーバード大学の物理学チームが,分子トランジスタに結びつく基礎研究の成果を発表しているが,これはベル研の実験とは全く別物)。

 当初,追試が成功しないのは,「Schon氏の実験テクニックがあまりにも水際立っていたため,他の科学者では手に負えないせいだ」と見られた。「実験に問題がある」というより,「Schonh氏の力量に,他の科学者たちが追いつけない」と解釈されたのだ。

 しかし,間もなく同論文に記載されたグラフと同じ物が,彼が以前に発表した三つの論文の中で,既に使われていたことが判明した。これらの論文は互いに独立した研究テーマを扱っており,同一のグラフが現れることは,常識的に考え難かった。この他にも同論文は様々な問題を抱えていることが,徐々に指摘され始めた。

9月25日に調査結果を発表,結果は「完全なクロ」

 事態を重く見たベル研は,外部の科学者チームに,論文の正当性をチェックする調査を依頼した。その結果が先週9月25日に発表された(発表資料1発表資料2)。

 ここで明らかになったのは「完全なるクロ(分子トランジスタの実験は全くのでっち上げ)」という衝撃的な事実だった。しかも全ての非はHendrik Schon氏個人にあり,論文の共著者として名を連ねた同僚科学者らは,「でっち上げ」に関与していないという。

 同調査レポートによれば,Schon氏らの論文には,「データの差し替え」や「物理法則との明らかな矛盾」など,16項目の問題点が確認された。これに対しては「実験結果の捏造(ねつぞう)」という判定を下さざるを得ない,という。

 レポートを一読して驚かされるのは,実験結果に対するベル研内部の杜撰(ずさん)なチェック体制である。いや「チェック体制の欠陥」というより,そもそもチェックらしきことが全く行われていないのだ。一連の実験は,全てSchon氏個人によって測定され,彼以外の誰一人として実験結果を目撃していない。調査チームはSchon氏に実験の一次データの提出を要求したが,それらは一つも残っていなかった。

 「コンピュータのディスク容量が足りなかったので,実験データは全部捨ててしまった」というのが,彼の言い分である。さらに調査チームはSchon氏に実験装置の提出を命じたが,「それらは全て紛失あるいは破損」しており,動作確認が不能になっていた。つまり「世紀の科学論文」はほとんどノー・チェックで,ベル研内部の審査をパスしたのである。

ついに研究開発の領域にまで不信感は広がってしまうのか

 調査レポートは,「論文の共著者は『でっち上げ』に無関係」という点を,特に強調している。実験の準備からデータの測定,その評価・解釈に至るまで,「全てSchon氏一人によって行われ,同僚の科学者は全く関与していない」というのだ。「共同研究者らは実験装置の使い方さえ満足に理解していなかった」とレポートは言う。

 しかし,そういうことなら,そもそも彼らが何故,論文の共著者として名を連ねているのか理解できない。レポートは一科学者に罪をなすりつけて,現在の学会を覆う根本的な問題から注意をそらそうとしているようにも見える。

 こう書くと,あまりに一般化が過ぎるように聞こえるかもしれない。しかし問題はベル研内部にとどまらず,その実験結果をさらにノー・チェックで掲載してしまったNatureやScienceなど,一流の科学論文誌に至るまで,広く根深いように思える。

 EnronやWorldComの不正会計事件によって,米国経済に対する不信感が生じる中,今回の事件は産業を支える科学研究の領域まで,それが広がるのでないか,という懸念すら与えるのである。