PR

 1月下旬,富士市へ行った。東海道新幹線は学生時代の田舎と東京との往復に始まり今に至るまで数え切れないほど使っているが,富士市は通り過ぎるだけで下車するのは初めてだった。この日は東京でも富士山がきれいに見えたのだが,新富士駅が近づくにつれて富士山はどんどん大きくなり,頂上から裾野まで視野に入ってきた。あまりに見事な富士の姿に新富士駅に着いてもタクシーに乗らず,しばらく見とれていた。訪問先の企業の会議室からも富士山が見える。きれいな富士ですねというと,こんなにきれいに見えるのはめずらしいとのこと。昨年12月に東京ガスのIP電話の記事が新聞に載って以来,多くの企業から問い合わせがあり,できる限り訪問して説明してきた。この企業からも社長オーダーでIP電話の導入を検討したいとの依頼があり,訪問することになったのだ。

IPセントレックスとは?

 東京ガスのIP電話はコンシューマ向けのIP電話とはまったく違う。コンシューマ向けのADSLを使ったIP電話は電話機にアダプタを付けて,IPネットワークを介した単純な電話の発着信を実現する。思いっきり単純に説明すると,発信者がダイヤルするとアダプタは発信のためのメッセージを作成して,プロバイダのVoIPサーバーに送信する。サーバーはメッセージに記された相手先電話番号に対応付けられた(アダプタの)IPアドレスを探し出し,メッセージをIPネットワーク経由で送り届ける。受信側のアダプタは,メッセージを受信すると電話のベルを鳴らして着信を伝える。受信側が受話器を取り上げると電話がつながる。あとは,アダプタ同士が互いのアドレスを知っているので,サーバーを介することなくアダプタ同士が音声パケットを直接やり取りする。

 VoIPサーバーがIPアドレスを見つけられない場合は,相手先電話機がIP電話サービスに加入していないということなので,VoIPサーバーは呼び出しメッセージをゲートウェイ経由でレガシーな電話網へ転送する。

 家庭の電話ならこれで十分だ。しかし,東京ガスのような企業のIP電話は単純な発着信だけでは使えない。代表番号,転送,コールピックアップ,保留,キャンプオン,コールウェイティング,発信規制——など,企業で必要とする電話サービスはいくつもあるからだ。これらの機能は,従来PBX(構内用電話交換機)で実現されていた。PBXに代わってこれらのサービスをIP電話で実現する共同利用型のシステムが,IPセントレックスなのである。

 セントレックスは英語でCentrexと書く。辞書には載っていないが,おそらくcenterとexchangeを合成した言葉だろう。IPセントレックスはプロバイダや通信事業者がサービスとして提供する。筆者が設計している東京ガスのIP電話ネットワークに関しては,IPセントレックスの仕様はフュージョン・コミュニケーションズと検討して作成した。数十種類のサービス機能がある。

 IPセントレックスはいくつかのサーバーで構成されているが,最も重要なのがクラス5と呼ばれるソフトスイッチとアプリケーション・サーバーだ。クラス5ソフトスイッチはレガシーな電話網の加入者交換機(通信事業者が電話回線を収容するために設置する電話交換機)に相当するもので,電話番号とそれに対応するIPアドレスなどの情報を管理し,基本的な発着信を実現する。一方のアプリケーション・サーバーはPBX機能を担当するもので,実体はUNIXサーバー上のソフトウェアである。

 IPセントレックスの構成イメージと仕組みを簡単に説明しよう。まず最初に,広域イーサネットなど高速・高品質な回線で構成された企業のイントラネットをプロバイダの通信センターにあるIPセントレックスと結ぶ。具体的には通信センター内にそのユーザー専用のレイヤー3スイッチを設置し,そこにイントラネットの回線をつなぐ。レイヤー3スイッチをプロバイダのSIP対応ファイアウォール(FW)を介してIPセントレックスと接続する。FWからイントラネット側はそのユーザーのプライベート・アドレスの世界であり,FWから向こう側はグローバル・アドレスである。次に,各オフィスのLANにIP-Phoneを接続する。要はイントラネットというIPネットワークにIP-Phoneをつなぐのである。これだけの道具立てで,内線電話も外線発着信もできる。PBXも不要なら,VoIPサーバーも企業内に持つ必要はない。

 発着信の仕組みはいたって簡単だ。前回紹介したSIP(Session Initiation Protocol)を使ってIP-PhoneとIPセントレックスが発着信の制御情報をやり取りする。IP-Phoneで内線番号をダイヤルすると,その番号を含む「Inviteメッセージ」がIPセントレックスに送られる。IPセントレックスは内線番号に対応するIP-PhoneのIPアドレスを検索し,メッセージを相手先のIP-Phoneに送信する。メッセージを受け取ったIP-Phoneはベルを鳴らし,受話器が上がると「接続OK」を意味するメッセージを発信側IP-Phoneへ通知する。一度つながった後は,発信側と受信側のIP-Phoneは互いのIPアドレスが分かっているので,直接IPパケットで音声データをやり取りする。外線の場合はIPセントレックスが外線電話番号であることを識別し,レガシー電話網とのゲートウェイを介して電話を接続する。IP-Phoneとゲートウェイの間で音声パケットが送受信されることになる。

SIPベースのIPセントレックスの意味

 これまでPBXを中心にできていた音声系ネットワークは,価格破壊が進んだデータ系と違って高コストなままだった。PBXメーカー間の競争が乏しかったからだ。IPセントレックスの直接的なインパクトは,PBXのリース料や保守料よりIPセントレックス利用料が安いということだ。

 だが,IPセントレックスの本質的な意味はコスト削減ではない。メーカー独自の世界に閉ざされていたPBXの世界を,SIPをベースとしたオープンな世界に変えたことだ。コスト削減はその結果に過ぎない。

 従来,PBXと電話機間のインタフェースはPBXメーカー独自のものであり,そのPBXメーカー以外の電話機がどんなに安価で機能が良くても使うことができなかった。競争原理の働かない電話機の価格は高止まりのままだった。2,3年前に登場したIP-PhoneとVoIPサーバーあるいはIP-PBX間のインタフェースもメーカー独自のものが多い。IP-Phoneの価格で呆れたのは,ハード価格の他にライセンス料も必要となるメーカーがあることだ。新しい技術を使った電話機だから安くなって当然と思うのだが,1台10万円といった価格が平気でまかり通っている。

 東京ガス・プロジェクトでは検討当初からSIPをベースに安価なIP-Phoneを作ることを重要な課題としていた。そして電話機専業メーカーであるユニデンに1万円代のIP-Phoneを作ってもらった。クローズドなIP-Phoneに課されているライセンス料より安価だ。

選択できることの価値

 IPセントレックスの例に限らず,オープンである,ということは「選択できる」ということだ。電話の世界がオープンになることによって,ユーザーはいろんなメーカーのIP-Phoneの中から自分の要件にあったものを自由に選択できる。

 選択できることはユーザーが主体性を持ってネットワークやシステムを設計する上重要なことだ。選択できないユーザーのことを筆者は「メーカーの奴隷」と呼ぶ。言葉は悪いが選択する自由がないのだから奴隷と同じだろう。ところが自分が奴隷状態になっていることに気づいていないユーザーが世の中には多い。

 この日訪ねたユーザーも,IP関係のネットワーク機器は有名ブランドの製品に統一されていた。私が説明したいくつかのネットワーク事例で使っている機器と価格を聞いてぽかんとされていた。IPもEthernetもオープンなプロトコルなのだからメーカーが異なっても簡単に接続できるし,管理もSNMPで一元的にできる。

 もうブランドにこだわらなくても,安価な製品で品質・性能とも問題なく使える時代になっているのだ。第一,選択というプロセスのないネットワーク設計なんてつまらないではないか。町の書店で売っているインストール・マニュアルで済ませられる程度の仕事ではやりがいは生まれない。

富士山だけが日本の自慢か

 帰りの新幹線,夕日に赤く染まった富士山が見事だった。漱石は「三四郎」の中で日本が世界に誇れるのは富士山だけ,と広田先生に言わせた。漱石は大好きなのだが,このせりふには反発したくなる。ネットワークの世界ではIPセントレックスに限らず,VoIPの実用化は日本が一番進んでいると筆者は思っている。せせこましく日本の中で過当競争にあけくれず,世界に通用する製品やサービスを生み出したいものだ。

(松田 次博)

松田 次博:情報化研究会主宰。1984年より,情報通信に携わる人の勉強と交流を目的とした情報化研究会(www2j.biglobe.ne.jp/~ClearTK/)を主宰。著書にVoIP構築の定番となっている技術書「企業内データ・音声統合網の構築技法」や「フレームリレー・セルリレーによる企業ネットワークの新構築技法」などがある。NTTデータ勤務。趣味は,読書(エッセイ主体)と旅行。