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 過去五回、日本が構想している情報通信技術の社会化イメージをご紹介してきたが、そうしたハードの進化を前提に、これからどんなITコンテンツのデザインが期待されているのかを、これから数回に渡り、同世代のチャーミングな有識者インタビューから探っていきたいと思う。

 その最初のゲストは、成城大学の野島久雄先生である。野島氏とは、文部科学省、経済産業省が主催している「新五感研究会」の同じホスト役として出会い、氏のプレゼンを聞いた瞬間から、「この方は人物である、「やさしいIT」の最初のご提言者はこの方しかない!!」と確信してしまったのである。


成城大学社会イノベーション学部
野島久雄教授
 そんな野島氏からご提言いただきたいキーワードこそ、ITの対極にありそうな「思い出工学」という、なんとも心疼かせるコンセプトなのである。
 思い出と言えば、私にも忘れられない強烈な記憶がある。

 それは、1985年の「科学万博 つくば’85」の時に郵政省が受け付け、16年後の21世紀の最初の年に配達を約束した「ポストカプセル郵便」である。筑波大学出身の私は、つくば博の折は、かつて学んだキャンパスに近い万博会場には仲間や家族とともに何度も足を運んだ。

 そして、当時28歳だった家内と、学生結婚のハネムーンベビーとして生まれてしまった3歳の長女とともに、このポストカプセル郵便で、未来の私たち家族に向けたそれぞれのお手紙を投函し合ったのである。

 2001年の元旦、いつものことながら大晦日に飲み過ぎ、酔眼で起きてきた私が出会ったのは、号泣している娘の姿だった。彼女がその時読んでいたのが、妻がつくば博の時に書いたポストカプセル郵便だった。我が妻は、つくば博の五年後、悪性の末期ガンで亡くなっていたのである。

 無論、私にも死んだ妻からの手紙が来た。文末に添えられていた「とにかく元気で会えて良かったね」というコピーがたまらなかった。実は、思い出工学を提唱する野島氏もまた、その思い出コミュニケーションの重要な事例として、エッセイの導入でポストカプセル郵便の意味を熱く語っていたのである。  
そんな野島氏の語りを、早速聞いてみるとしよう。

 「この時を超えた郵便配達で投函された手紙は、実に328万通でした。そのうち配達されたのは、303万通で、25万通ほどが配られませんでした。宛先不明の他に、きっと様々な理由で受け取りたくなかったケースもあったはずです。そして、赤池さんのように、早世した家族から送られてきた手紙や、別れた恋人から送られてきた手紙など、この手紙が届いたゆえの修羅場が実にたくさんあったろうと想像されます。
 実は、僕は10年ぐらい前から、このポストカプセル郵便に象徴される、「思い出」に注目してきました。と言うのも、これからは「個人情報の時代だ」という確信があったからなんですね。私たち個々人は、通り過ぎてしまった個人の履歴として過去である思い出を持っている。そして、私たちが生活していく時に思い出が重要な役割を果たしているはずなんです。

 昔の上司などにこんな思い出の話をすると、「野島君も思い出の研究をするようじゃ、年を取った証拠だね」、などと言われますが、実は思い出は、過去に閉じた話ではなく、私たちの今にとっても、そして未来にとっても、とても重要な情報であると考えているんですね。

 例えば、インターネットを使えば、すごくたくさんの情報って見つかるじゃないですか。検索すれば、いくらでも知りたいことが出てくる。ところが、かつて自分の書いたものが見つからないとか、買ったはずの本が何でないんだろう、といった悩みが常にあって、こうした課題の解決というのが、これからすごく重要になってくるだろうなと思っていたんです。

捨ててしまうけど価値があるもの

 そして、個人の持っている情報は実にたくさんありますが、もう一つの課題が、情報を生産している時にはあまり有効だと思っていないことなんですね。うちの娘なんかもそうなんですが、小学校から中学、中学から高校に行く時は、本当に大切な情報をたくさん捨てるわけですね。後になったら懐かしくなるぞと思うけれども、その当時は全然そんなことは感じないんです。

 かつて書いた日記や作文、かつて作った工作や絵画。そういうものこそが実は、後になってくると非常にいいものになってくるはず。そういう話をもう少しちゃんとやりたいなというのが、「思い出工学」なんですね。


野島教授の研究室に置かれている
タイムカプセル
 ところが研究を始めてみると、思い出にはすごく難しい問題があることが段々わかり初めてきました。まず、お金を掛けて取っておけば役に立つというものではないですね、思い出は。それに例えば、大切なものを取っておいて、後になって20年後ぐらいに箱を空けてみて、そのもの自体は大したことはないのに、それを包んでいた新聞の方がずっと面白いといった話があったりするわけです。

 実は、思い出をお金を掛けて保存することにはあまり意味はなくて、物自体の価値よりも、それを見たときに「面白い語りがいかにできるか」の方がずっとずっと重要なんですね。物は、きっかけにすぎなくて、そこで語られる話とか、語られる内容の方がずっと重要なわけです。そうしたきっかけをいかに保存し、アクセスしやすいものにするか。そんなところにも、やさしいITを考える、手つかずの可能性があるのかも知れませんね」。

 野島先生のご提言を整理してみたい。

 氏の言う「思い出」の定義とは、「かけがいのない個人情報」のことである。それは、「個人に属し」、「個人が管理し」、「個人が楽しむ」情報コンテンツと、それに関連する事物を意味している。単なる過去の情報に限ったものではなく、そこには未来に向けた計画、情報、ものの管理も含まれている。

 ポイントは、私たち自身が管理しないと誰も管理してくれないこと、私たち自身が保存しなければ誰も保存してくれないこと。すなわち、思い出とは、あなた自身にとって貴重で無二の属人的なデータセットであり、それがゆえにこれからみんなが面白がる新しいエンターテインメントになり得る、というのが、野島先生のご提言なのである。

 こうした思い出コンテンツは多分、単なるエンターティメントとしてだけではなく、様々な社会装置として機能していく可能性を持っている。思い出とちゃんと向き合うシステムを開発すれば、例えば認知症の治療に最近用いられ始めた「回想療法」のように、懐かしい映像を鑑賞し合い、語り合うことで、医療的な治癒効果をもたらすこともできる。思い出は、PTSDに対するリハビリや、高齢者のクオリティー・オブ・ライフなどを向上させる装置としても、確実に社会化する大きな可能性を持っているように思えるのだ。

※野島久雄教授のサイト http://www.nozy.org/nojimaweb/

※野島教授の「思い出工学」をもっと知るには「家の中を認知科学する」(新曜社、3780円)をご参照ください。