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 人は力を合わせて困難に立ち向かう。力を合わせて乗り越えることこそが、人間の大きな喜びであり幸せだからだ。共同体はそのためにある。先日、山岳部の登山プロジェクトの講演を聴いて、僕はこのことを再認識した。

 その日、日に焼けた顔の出利葉 義次(でりは よしつぐ)さんは、がっしりとした身体をスーツに包んで、でも、いつものとおり、淡々とした表情で会場にやってきてくれた。僕の勤める東海大学の政治経済学部が40周年を迎えたので、記念講演をお願いしたのだ。

 出利葉さんは、僕よりも四歳ほど先輩で、普段は大学の職員として活躍されている。一見、寡黙な普通のおじさん見えるこの人は、実はタダモノではない。出利葉さんは、山岳部の監督なのである。

 山岳部の監督といっても、ただの山岳部ではない。K2に登ってしまう山岳部の監督なのだ。K2はパキスタン北部にある、標高8611mの世界第2位の山だ。「非情の山」と呼ばれ、登頂成功率が極めて低い、世界で最も過酷な山なのだ※1。そして、K2は女性を受け入れない山でもある。実はこれまで登頂に成功した女性6人のうち5人はその下山途中に命を落としている※2。まさに非情である。

 K2登山隊は、資金面でも大変な苦労をした。現在、お金に余裕のある大学なんて日本にはない。それに加えて、K2は、パキスタンと中国の国境に位置するけれど、領土を主張するインドや、混乱の続くアフガニスタンなどにも近く、政情が不安定な地域でもある。入山のための政府調整も大変だったらしい。パキスタン軍人が政府連絡官として登山隊に同行していたくらいだ。

 登山というと素人には、リュックを背負って、口笛吹いてというイメージだけれど、K2への挑戦は、そうじゃない。命がけの闘いだ※3

資金や政府調整のほかにも、減圧による適正検査など高所医学研究や、低圧室でのトレーニングなどスポーツ医学研究の成果とも連携する。さらには、大学の情報技術センターが気象衛星画像を提供し、総合教育センターからは、気象研究の専門家が綿密な天候予測をベースキャンプに伝えるのだ。無数のハードルを目の前に、自らの経験と大学の知識と情報を総動員して、これらを乗り越えてゆくのが監督としての、準備段階での仕事だ。

 現地では監督はもっと大変になる。僕は、登山隊が日本人11人だから、彼らだけで挑戦するのかと思っていたら、これに現地の隊員が4人加わる。それ以前に、ベースキャンプに行くまでのキャラバンだって、総重量1トンにもなる装備を担いで、なんと200人の大キャラバン隊が6000m近い危険な峠を越えてゆくのだ。K2のベースキャンプにたどり着くまでだって、一体何人の人が、その準備に協力し、汗を流したのだろう。それを指揮して一つにまとめ、最難関の登頂を目指す。

K2に闘いを挑んだ55日間

 登山隊がベースキャンプ入りして、K2に闘いを挑んだ55日間はさらに壮絶であり、まさに死闘を繰り広げる。

 今回の登攀(とうはん)は南南東リブからのアタックで、これまで何度も登攀を成功させている南東稜より、さらに登攀の難しい急峻な岩稜(がんりょう)なのだ。突然襲う雪崩は、爆風で人を飲み込む。こぶし大の落石は日常茶飯事であり、冷蔵庫大の落石が砕け散ることもある。常に上を見上げながら行動していても、隊員のジャケットは、避け切れなかった落石でボロボロになっていたそうである。

 頂上へのアタックキャンプとなる標高7900mの第3キャンプまでのルートが開拓されたのが、7月24日である。登攀開始から既に1ヶ月以上かかっている。25日には隊員は、またベースキャンプに戻って3日間休養し、いよいよアタック隊が出発するのである。

 僕は、全然知らなかったのだけれど、3つのキャンプまで、登攀ルートを確保しては、ベースキャンプに戻り、またルートを開拓しては戻りと、何度も何度も、上り下りを繰り返しながら、確実な登攀ルートを拓いてゆくのだ。道のない道を進むためには、それを切り拓くために何度も後戻りを重ねて、少しずつ前に進む。問題解決の基本だ。

 3人のアタック隊員がベースキャンプを出発したのは、7月29日の午前4時だった。しかし、アタック隊のリーダーである蔵元学土隊員は途中急病で倒れてしまう。残されたのは、女性の小松由佳隊員、21歳の青木達哉隊員の2人である。綿密なこれまでの準備と詳細な情報、若い2人の生命力に賭けた出利葉さんは、登攀続行を決断する。

 2人がアタックキャンプを出発したのは8月1日の午前2時30分であった。途中、最大の難所となったボトルネックと呼ばれる氷のガリー(小道)や、急峻な氷雪壁を登攀し、見事登頂に成功したのは、それから14時間20分後の午後4時50分であった。小松隊員は、世界で初めて南南東リブからの登頂を成し遂げた女性となった。そして青木隊員は、K2登頂の世界最年少記録を打ち立てたのである。ふたりの喜びと、そして登山隊のメンバーの喜びはどれほどのものだったろう(詳細はこちら)。

無事生還してこそ、成功

 でも、喜びもつかの間、出利葉さんの心には不安が暗雲のごとく広がっていた。午後4時50分の登頂成功は、困難な下山をさらに難しくすることを意味していた。すぐに山は暗くなる。頼りはヘッドランプだけだ。1人が氷壁を降りるときには、もう1人がロープを確保していなければならない。この作業を繰り返し、繰り返し、下山するのである。失敗すれば、3000mを一気に滑落する。

 問題は暗闇だけではない。酸素だ。まもなく、厳寒の中、酸素は切れるだろう。これ以上の行動は危険だ。2人は難所ボトルネックの前でビバークする(そのまま座って夜を明かす)ことを決断する。しかし、8000mの高所で、酸素なしの長時間の滞在は、凍傷による手足の切断や、肺気腫が心配される。ビバークは死を意味する過酷な選択だ。そして、無線のバッテリーは切れ、2人は消息を絶った。

 翌8月2日の昼になっても第3キャンプに戻らない2人。ベースキャンプは緊迫していた。出利葉さんほか隊員全員が眠れぬ夜を過ごし、緊張は時間が経つにつれて増した。遭難を強く疑い始めていた。やはりK2登頂を果たした女性は帰れないのか…。ここは非情の山である。

不安が絶頂に達した12時20分のことだった。「ただいま、第3キャンプに戻りました!」日本人女性で始めてのK2の登頂に成功した小松隊員の元気な声がベースキャンプに響いたとき、登頂成功の時よりも、もっと、もっと、みんなは歓喜し、涙し、全員が抱き合って喜びを噛み締めた。奇跡の生還だった。

 同じ時期に、アメリカ、ロシア、イタリア、スペイン、パキスタンの登山隊、そして混成隊のフランス、スイス、オーストラリア、ポーランド人などなど、世界各国の人々がK2にチャレンジしていた。情報や準備が不足して、日本隊に医療や装備の援助を求める外国隊が多かったそうだ。イタリア隊は成功したが、多くは登頂を断念した。残念なことにロシア隊の4人は遭難し、非情の山に命を奪われた。登攀ルートには、遭難時の姿をそのままに氷の中に眠るアルピニストの姿があちらこちらに見られるそうだ。

 たったひとりでは、人は困難に立ち向かうことはできない。力をあわせることが出来ない人は困難に立ち向かえない。人は弱いのだ。だから力をあわせるのだ。

 K2登頂は、僕に勇気を与えてくれた。力をあわせる人たちの姿は人々を幸せにする。

【注】
※1 非情の山と呼ばれるようになった背景は、1953年のアメリカ登山隊の悲劇を記録したこの本をお読みください。Charles S. Houston, Robert H. Bates ”K2 the Savage Mountain” Lyons Pr, 2000、伊藤洋平訳「K2―非情の山」白水社、1956年【本文に戻る】
※2 あえて困難に挑んだ5人の女性登山家の姿はこちらをどうぞ。ジェニファー・ジョーダン「K2非情の頂 5人の女性サミッターの生と死」山と渓谷社、2006年【本文に戻る】
※3 東海大学K2登山隊の記録は、こちらをごらんください。【本文に戻る】

【ごあいさつ】
 読者の皆様 新年あけましておめでとうございます。本年もデジタル情報を駆使して、アナログな人々が力をあわせて様々な問題を解決する共同体の姿を追ってゆきたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2007年 元旦  小林 隆