羽田空港からの飛行機が、男鹿半島近くの日本海上空に到達したのは、搭乗からわずか50分後だった。初秋の清々しい空の下に、さわやかな青い海が広がっていた。延々と続く若杉の森の緑と青い海のコントラストが映える。その美しい海岸線は、男鹿半島から鳥海山まで、緩やかなカーブを描きながら続き、そのすべてが上空から見渡せる。なんと雄大な景色なのだろう。
稲穂を黄金色に染め始めた刈り入れ間近の田んぼを眺めながら機体は秋田空港の滑走路にすべり込んだ。飛行機から降り、空港ロビーの外に出ると、緑色の昇り旗がたくさん並んでいる。2007年9月29日から開催される第62回国民体育大会の「秋田わか杉国体」と、それに続いて開催される全国障害者スポーツ大会のマスコットキャラクタ「スギッチ」が描かれた昇り旗だった。
個別競技の開催を除けば、秋田県で国体の本大会が開催されるのは1961年以来。前回の国体は「まごころ国体」として、日本中に知れわたっていた。なお、2004年に埼玉県で開催された国体も「まごころ国体」と称していたが、もちろん秋田県が御本家である。
当時の東北地方は、現在も同じだが、厳しい財政状況下にあった。特に秋田県は、東京や大阪の経済圏からの時間距離が障害となり、経済が伸び悩んでいた。だから国体を開くために新しいスポーツ施設を建設したり、民間企業が宿泊施設を増やしたりすることができなかった。
スポーツ施設は、既存のものや、周辺の宮城県や福島県に頼ることで何とかやりくりしたのだが、やりくりできないのが選手を迎えるための宿泊施設だった。選手や関係者を含めた国体の参加者は、現在では約3万人だが、当時でも1万5000人いた。そこで「民泊」となったのである。
普通の家庭で選手を迎えておもてなしをする。親切な秋田の人たちは、心から選手をもてなしたのだろう。この民泊は大好評で「民泊国体」と呼ばれるほどに絶賛された。これがまごころ国体と呼ばれた所以である。民泊は、その後の国体でも続けられ、約半数の選手が現在でも会場の近くの民家に宿泊している。あまり知られていないことだが、国体は、選手にとって、第2の家族、第2のふるさとを持つ機会を提供する貴重な地域間交流の場なのである。その起源が秋田県なのだ。
今回のわか杉国体でも、県民総参加が掲げられ、親切でやさしい秋田の人たちが選手や関係者を迎え入れる準備を重ねている。その準備にあたるボランティアの数は14000人を予定しているのだ※1。選手2人にボランティア1人がいる。家族全員がボランティアとして参加する家族の様子をホームページから見ることもできる。なんていい顔しているのだろう。
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