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 じっとりと湿った空気に包まれた都会で仕事に追われていると、疲労がさらに増すように感じる。誰もが好きになれない梅雨時だが、僕はこの季節に一つだけ、とても楽しみにしていることがある。それは「さくらんぼ」だ。

 梅雨の真最中、6月の第3日曜日に、さくらんぼの収穫は最盛期を迎える。山形県内のさくらんぼ農家は、家族総出で収穫に追われる。この日はさくらんぼの日なのだ。山形県は全国のさくらんぼ生産量の約7割を占める日本一のさくらんぼ王国で、今のところ、さくらんぼの王様と言えば「佐藤錦」だろう。

 佐藤錦は、山形県東根市で1867年(慶應三年)に生まれた佐藤栄助がつくり出した品種である。佐藤は、生家の事業が失敗したことなどから、40歳(1907年)でさくらんぼの栽培に取り組みはじめる。明治42年から大正2年にかけて作成された生命表によると、当時の平均余命は44.25歳で余命はわずか50年にも満たない※1。そんな時代にあって40歳からの再スタートというのは勇気のいることだったろう。だが、佐藤は持ち前の探究心旺盛なマインドを発揮して、雨で実割れしない甘いさくらんぼの開発に成功する。「佐藤錦」という名前がつけられたのは1928年のことで佐藤は61歳だった。彼は83歳でその生涯を閉じている※2

 彼が佐藤錦の開発に取り組んでから100年、現在に至るまで彼の功績は、さらに改良が重ねられ山形のさくらんぼは超高品質な果物に育っている。そして、高品質を保つために、山形のさくらんぼ農家の払う努力は大変なものだ。雪国の山形では雪の重みで枝が折れてしまう。だから、欠かさず雪おろしをし、発芽を早めるために雪消しという作業をする。その後、剪定、消毒をして、受粉するが、さくらんぼは同じ品種同士では受粉しないので、複数の品種を同時に育てる。確実な受粉のためにはミツバチを利用する。雨に弱いので雨よけのビニールの屋根を木の上にかけ、実ができてからは、日が良くあたるように葉をまとめたり、アルミシートを木の下に敷いたりと、さくらんぼづくりに使うエネルギーと、これまでに蓄積された高級品づくりのノウハウには驚くべきものがある。

 日本の高品質の果物といえば、今、中国の高所得層で大変な人気なのだそうだが、山形の佐藤錦やそれに続く紅秀峰は最高級品として世界的に有名で、海外で酷いさくらんぼしか食べたことのない僕は絶対に世界一のさくらんぼだと思う。山形の人々のこうした努力の結果、温室栽培された正月用の初物では300gほどの佐藤錦が5万円もするというし、さくらんぼの季節でも、千疋屋総本店などの高級果物店で扱う最高級品は500gで1万5千円もする。色や形はほんのちょっぴりバラつくけれど、味は最高の優秀品でも1kgで7千円ほどだから、これもやっぱり高級品だ。けれども、あの甘くてほのかな酸味を味わえるならこの価格は惜しくない。これを食べたら値段は半分でもアメリカン・チェリーは食べられない。

 政府は、こうした食の知的財産に着目していて、知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会日本ブランド・ワーキンググループが、食のブランド価値を高めるための政策や、食の地域ブランドづくりなどについて検討し、それらの情報をどのように発信するのか検討を重ねている※3。前回の日本ブランド・ワーキンググループの報告書では扱われていなかったけれど、山形県のさくらんぼに関わる情報発信は、地域ブランド力の発信の仕方としてとても参考になる。

 山形県は、ブランド戦略として「山形セレクション」と呼ばれる認定制度を創設している。高い品質、安全性・安心感への配慮、山形の自然、歴史・文化の継承、山形の技術・技法の伝承、環境への配慮の5つの理念に基づくブランドの信頼を公的な機関が保証する。その審査を担う山形セレクションブランド化戦略策定委員会には、PCオンラインのコラムを執筆している赤池学さんや日本経済新聞のコラム「食(く)あれば楽あり」でお馴染みの東京農業大学教授の小泉武夫さんらが名を連ねている※4。公的機関が情報の信頼性を保証するのは、個人や企業の持つ情報が、社会情報としてたくさんの人々に共有されるために必要なプロセスだ。

 山形セレクションの冠のついたさくらんぼ、(http://www.yamagata.nmai.org/y_selection/cherry.html)は、品種は佐藤錦か紅秀峰、等級は「秀」以上、階級は「L(22mm)」以上、甘さは「糖度20度」以上と厳しい基準が設けられていて、さらには、生産者や県内外の取り扱い店舗の認定と公表も行って信頼性を確保する。

 さらには生産者が必要とする情報の提供も忘れない。「やまがたアグリネット」は、生産者が必要とする天気、流通分析、病害虫の診断などの情報を提供し、県内の農産物の品質確保を支援する。収穫時期のトップページには、『山形の顔「さくらんぼ」おいしいものをおいしいままに届けよう。品質・出荷管理に努めよう。適期収穫の励行、うるみ果、障害果等の混入防止、選果の徹底と出荷規格の遵守、生産履歴の適正な記帳、農薬の適正な使用』とスローガンが掲げてある。品質維持への生産者の努力が伝わってくる。

 さくらんぼは、届いたらすぐに食べるのが作法だ。3日以上置いてはいけない。冷蔵庫に入れてもいけない。さくらんぼは、適期収穫をしないとおいしくいただけないのだ。だから、どうしても現地へ行ってさくらんぼが食べたいというツウな消費者もいる。そんな、「さくらんぼ病」の人には、「さくらんぼナビ」がある。さくらんぼナビは、さくらんぼの旬の時期を迎えた果樹園を教えてくれる。そして、さくらんぼ初心者には、こんなビデオまで用意されている。さくらんぼは疲労回復に効果があり、特に眼精疲労に効果があるから、パソコン利用が日常の人にはもってこいだ。

 携帯電話が鳴って出てみると、山形にいる僕のゼミの卒業生からだった。「あっ、先生?元気? ご無沙汰しています。」「おお!どうだい元気かい?営業は順調かい?」「うーん、苦労していますよぉ。なかなか売れなくって。」「まあ、仕事の方はなんとかやっているんですけどね、実家のさくらんぼがそろそろ収穫の時期なので…」僕は、うれしくって飛び跳ねたい気持ちを抑えるのに必死だった。

【注】

※1 平均余命の推移については、厚生労働省大臣官房統計情報部「第20回 生命表」2007年7月の「3.第20回生命表について 表2完全生命表における平均余命の年次推移」をご覧ください。【本文に戻る】

※2 佐藤栄助さんのお話は、財団法人 地域活性化センター「さくらんぼの王様「佐藤錦(さとうにしき)」の生みの親」、『伝えたいふるさとの100話』をご覧ください。佐藤さんの話のほかにも、日本の地域社会で活躍した人々の偉業が掲載されています。【本文に戻る】

※3 知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会日本ブランド・ワーキンググループ「日本ブランド戦略の推進-魅力ある日本を世界に発信-」2005年2月25日。この調査会は、現在はコンテンツ・日本ブランド専門調査会として食文化を含む議論が続いています。【本文に戻る】

※4 小泉武夫「食あれば楽あり」日経ビジネス人文庫、日本経済新聞社、2003年7月。小泉先生の本はほんとうに面白いですね。食を愛する人になれる本です。【本文に戻る】